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丞相
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歴史
秦漢から隋まで
戦国時代、それまで周王の下にいた各諸侯は周の衰えとともに王を名乗るようになるが、その補佐をする役職として相邦があった(楚では令尹と呼んだ。)。後の漢代の史料では劉邦の諱に触るので相国と呼び替えられた[1]。秦は紀元前309年から左右丞相制を敷いた[1]。
秦制を受け継いだ前漢でもその制度は受け継がれ、初めは相国のちに丞相と呼ばれた[2]。前漢では諸侯国にも相国・丞相が置かれていたが、呉楚七国の乱後に相と改められた[3][4]。
前漢における丞相は行政の最高責任者であり、皇帝を輔弼した。その権限は朝議を主宰すると共に、官僚人事の統括も行った。その元に丞相府を構えて属官として長史・丞相司直など多くの官僚を抱えた[5][6]。しかし十時が立つとともに丞相の権限は儀礼的なものに偏るようになり、政治的な実権は御史大夫[7][8]、次いで尚書へと移行していった[9][10][11][12]。王莽の時に丞相は大司徒と改められて、丞相の名は消えた[13]。
その後の魏晋南北朝時代に丞相が復活したが、宰相職ではなく禅譲・簒奪の前段階としての意味が強かった[14]。唐になると三省の長官(中書令・門下侍中・尚書僕射各2名)及び同中書門下三品が宰相職となり、丞相は存在しなくなった[15][16]。
宋から明での廃止まで
北宋では同中書門下三品から発展した同中書門下平章事が宰相、参知政事が副宰相となっていた[17]。これが神宗元豊の改革の際に尚書左僕射兼門下侍郎、尚書右僕射兼中書侍郎の二人が宰相となり[18]、さらに南宋代にこれが左僕射同平章事・右僕射同平章事と改称され、更にそれぞれ左丞相・右丞相と改称されることで丞相が復活した[19]。元代においても最高府である中書省の長官として左右丞相が、その出先機関である行中書省にも丞相が一人置かれた[20]。
明も続いて中書省と左右丞相を置いたが[21]、丞相の強大な権限を嫌った明建国者朱元璋は洪武13年(1380年)の胡惟庸の獄を切っ掛けに中書省を廃止、丞相も廃止された[22]。このあとに丞相が復活することはなかった。
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日本での異称
日本では飛鳥時代の末期に中国の律令制度が伝えられ、徐々に国家機構が整備されていった。行政・立法・司法を統括する最高国家機関として太政官が設置され、その長官である左大臣・右大臣はそれぞれ唐名で「左丞相」・「右丞相」などと称する事があった。例えば右大臣菅原道真を「菅丞相」と呼ぶなどである。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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