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巨勢至忠

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巨勢 至忠(こせ ゆきただ)は、江戸時代中期の旗本土岐朝澄の子。巨勢至信の婿養子。官位従五位下伊豆守日向守

概要 凡例巨勢至忠, 時代 ...

生涯

延享2年(1745年)、初めて徳川吉宗御目見し、宝暦元年(1751年)に旗本寄合席に列した[1]。宝暦3年(1753年)に定火消となり、布衣の着用を許された[1]。宝暦9年(1759年)、江戸城西城に勤めて小姓組番頭に昇進し、従五位日向守に叙せられた[1]。宝暦11年(1759年)に江戸本城勤務となり、御書院番の番頭となった[1]明和3年(1766年)、御側に昇進し、安永5年(1776年)には徳川家治日光山行幸にも付き添っている[1]

安永7年(1778年)12月16日、病を得て役職を退こうとしたものの許されず、心を落ち着けて療養すべしと、命令を受けた[1]。3日後の12月19日に死去、享年52[1]

系譜

  • 父:土岐朝澄
  • 母:江原全玄
  • 養父:巨勢至信
  • 正室:巨勢至信次女
  • 継室:毛利高慶
  • 生母不明の子女
    • 男子:巨勢利貞 - 病弱につき家督を継がず
  • 養子
    • 男子:巨勢至健 - 松平忠刻の四男、忠睦
    • 男子:巨勢至方 - 大岡忠光の三男
    • 男子:巨勢至親 - 板倉勝興の三男
    • 女子:巨勢至親室 - 実父は土岐朝貞、巨勢至健室→巨勢至方室→巨勢至親室

脚注

参考

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