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平遠 (装甲巡洋艦)

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平遠 (装甲巡洋艦)
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平遠(へいえん、平遠、Ping Yuen)は、清国海軍装甲巡洋艦日清戦争で日本軍に降伏、接収され日本海軍に編入された。ただし艦名は日本海軍編入後も変更されていない。

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艦歴

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右舷から撮影された本艦。
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左舷から撮影された本艦。

起工時の艦名は、「龍威」であったが、北洋艦隊への編入時に「平遠」に変更されている。総工費は銀52万4000両。備砲については、47mm速射砲の装備数には2門から8門まで様々な説があり、一定していない。

清国初の国産巡洋艦であるが、装甲はフランスから、主砲・副砲はドイツのクルップからそれぞれ輸入した物であった。

黄海海戦において、日本の旗艦「松島」と交戦、主砲及び魚雷発射管に損害を与えたが、自身も命中弾を受け威海衛に撤退し、1895年明治28年)2月17日、日本海軍に鹵獲され、3月16日に艦籍に編入された[2]10月21日西海艦隊所属となった[3]が、11月15日呉鎮守府警備艦に指定される[4]

日清戦争では国内警備に従事し、1898年(明治31年)3月21日、一等砲艦に類別された。

日露戦争では旅順攻略作戦に参加した。

1904年9月18日、「平遠」は鳩湾方面へ哨戒に向かい消息不明となった[5]。捜索にあたっていた「済遠」が9月20日に生存者4名を発見[6]。その証言によると、「平遠」は哨戒から戻る途中、18日午後7時40分頃に鉄島の西約1.5浬で触雷し、沈没したとのことであった[7]。艦長浅羽金三郎中佐以下193名が死亡した[7]

翌年5月21日に除籍された。

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年譜

  • 1886年 清国、福州馬尾造船廠にて、起工
  • 1888年 進水
  • 1889年 艤装完了
  • 1890年 北洋艦隊に編入し、就役。
  • 1894年 日清戦争に参戦、黄海海戦に参加
  • 1895年 日本海軍に降伏、編入
  • 1898年 砲艦に類別。
  • 1904年 日露戦争に参加、触雷沈没
  • 1905年 除籍

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

日本海軍
  • 柏原長繁 大佐:不詳 - 1896年8月13日
  • 細谷資氏 大佐:1896年8月13日 - 1897年4月17日
  • 大塚暢雄 大佐:1897年4月17日 - 12月1日
  • 中山長明 大佐:1897年12月1日 - 1898年5月23日
  • 中尾雄 中佐:1898年5月23日 - 11月2日
  • 友野雄介 大佐:1898年11月2日 - 1899年9月29日
  • 有川貞白 中佐:1899年9月29日 - 1900年3月14日
  • 太田盛実 中佐:1900年3月14日 - 3月26日
  • 小泉鑅太郎 中佐:1901年8月30日 - 1902年6月5日
  • 毛利一兵衛 中佐:1902年6月5日 - 10月6日
  • 大城源三郎 中佐:1902年10月6日 - 1903年7月11日
  • 浅羽金三郎 中佐:1903年7月11日 - 1904年9月18日戦死

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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