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平野長蔵

日本の自然保護活動家 ウィキペディアから

平野長蔵
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平野 長蔵(ひらの ちょうぞう、明治3年8月10日1870年9月5日〉 - 1930年昭和5年〉8月20日[1])は、日本自然保護活動家。尾瀬を拓いた先駆者であると同時に、その自然保護に取り組んだ。山小屋・長蔵小屋の初代主人。福島県南会津郡檜枝岐村出身。号に尾瀬沼山人。平野長英は息子。平野長靖は孫。

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初代・長蔵小屋の前の平野長蔵(大正時代)。

生涯

明治3年(1870年)8月10日、福島県南会津郡檜枝岐村[2]、平野伝八の三男として生まれる[3]。父の死により、小学校に通えたのは3年までだった[2][3]

1889年(明治22年)8月、19歳の時燧ヶ岳に登頂、登山道を開く[2]。翌1890年(明治23年)に燧嶽教会を開設して祭祀を始めた[2]。同年沼尻(ぬしり)に近い押出(おんだ)し沢に長蔵小屋の前身となる行者小屋を建設[4]1894年(明治27年)「燧嶽神社附属愛国講社」を結成[2]

1902年(明治35年)舘岩村(現・南会津町)のトメと結婚[5][6]今市(栃木県)で行商をして生計を立てる[7][8]1910年(明治43年)尾瀬沼尻に小屋を建てる[4]

尾瀬での養魚事業を企図し、和井内貞行に照会してヒメマス養殖を試みる[9][10]1914年大正3年)9月、「尾瀬沼区画漁業権」を獲得するも、養魚事業は失敗に終わった[9]

1915年(大正4年)、尾瀬沼東岸の現在地に長蔵小屋を建設し引っ越した[9][11]

1922年(大正11年)、関東水電が尾瀬の水利権を獲得、尾瀬ヶ原をダムにし、尾瀬沼・尾瀬ヶ原間と至仏山にトンネルを掘り発電所を作る計画を発表[12]。長蔵は単身上京して、同年7月26日付で当時の水野錬太郎内務大臣に宛て、請願を提出した[13]

1930年昭和5年)8月20日、長蔵小屋で倒れ死去[14][15]。尾瀬・ヤナギランの丘に埋葬される[14]

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エピソード

  • 牧野富太郎が尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採るので、研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある[16]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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