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廣海惣太郎
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廣海 惣太郎[1](ひろみ そうたろう、前名・惣十郎[2][3]、1878年〈明治11年〉4月29日[4] - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)[5][6][注 1]、実業家。阪南銀行頭取[3][9][10][11]。岸和田煉瓦綿業社長[3][10]。泉醤油、本辰酒造各取締役[3][5][10]。貝塚織物相談役[12]。泉醤油監査役[6][11]。族籍は大阪府平民[2][4][13][14]。
経歴
大阪府・先代廣海惣太郎(後に廣海惣爺と改名)の長男[3][5][6][10][12][13][14]。1901年、家督を相続した[3][5][10]。同志と図り、貝塚銀行を創立し、次いで頭取となり、1940年、合併により阪南銀行頭取に挙げられた[3]。諸会社の重役を兼ねた[3]。
人物
辰馬半右衛門の従兄である[5]。人柄は『泉州商工便覧』で「品性高潔温厚玉の如き人」と評される[1]。趣味は囲碁、盆栽[1]、能楽、茶道[3][5][6][10]。宗教は真宗[3][6][10]。住所は大阪府泉南郡貝塚町西[3](現・貝塚市西町)。
家族・親族
- 廣海家
廣海家は貝塚町に於いて「貝塚三家衆」と呼ばれる豪家で、代々回漕業並びに肥料商を営む[3][5][6]。廣海家が歴史の表舞台に登場するのは1835年、浄土真宗願泉寺の寺内町でこの地を支配していたト半(ぼくはん)家より諸色問屋開業を仰せつかった時からである[15]。貝塚寺内の有力町人明瀬(みょうせ)家の娘ひろが摂津国鳴尾(現在の兵庫県西宮市鳴尾町)の酒造家・辰馬半右衛門家から養子を迎え、貝塚寺内の地頭であった願泉寺卜半(ぼくはん)家から廣海姓を賜った[16]。1865年から1868年には4隻の大型和船を所有し、北陸地方、東北日本海岸、北海道産の米穀や肥料を扱っていた[16]。廣海家は西廻り航路で米などを移入した結果、2万石以上もの米が貝塚で移入販売されるようになる[15]。1883年には海運業から撤退した[16]。戦前まで肥料問屋を営み、一方で貝塚銀行など地元企業の設立にも積極的に関わる[16]。廣海家住宅は登録有形文化財(建造物)である[16]。
- 父・惣爺[12][13][14](旧名・惣太郎[3][5][6][10]、1840年 - ?、兵庫、辰馬兵右衛門の二男[4][12][14]、辰馬半右衛門の叔父[5]) - 岸和田銀行監査役、岸和田煉瓦取締役などを務めた[17]。
- 母・つる(1850年 - ?、大阪、田守三郎兵衛の叔母)[14]
- 姉・てい(1873年 - ?、大阪、河盛利兵衛の妻)[3]
- 妹
- 妻・ノブ(1882年 - ?、奈良、永田藤兵衛の妹)[3][5]
- 二男・昌蔵[9](1901年 - ?、肥料商、東洋研磨、日本絹靴下各取締役) - 会社重役である[3]。宗教は真宗[3]。趣味は写真、園芸[3]。
- 三男・格蔵(1903年 - ?)[3]
- 同妻・和子(京都、飯田三次の五女)[3]
- 親戚
脚注
参考文献
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