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張敬詢
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張 敬詢(ちょう けいじゅん、生年不詳 - 933年)は、唐末から五代十国時代にかけての官僚・軍人。本貫は勝州金河県[1]。
経歴
李克用に仕えて、甲坊を管掌すること15年に及んだ。後唐の同光元年(923年)、荘宗が即位すると、敬詢は沁州刺史として出向した。任期を満了すると、再び甲坊使となった。荘宗が山東を経略すると、敬詢は従軍し、博州・沢州・慈州・隰州の刺史を歴任した。同光4年(926年)、耀州団練使に任じられた。郭崇韜が前蜀を征討すると、敬詢は租税の監督を得意としたことから、推薦を受けて昭武軍節度留後となった[1]。
天成元年(926年)、明宗が即位すると、敬詢は正式に昭武軍節度使に任じられた。天成2年(927年)、洛陽に召還され、大同軍節度使に転じた。着任すると、室韋1万帳あまりを招撫した。天成4年(929年)、洛陽に召還されて左驍衛上将軍となった[1]。長興元年(930年)、滑州節度使に任じられた[2]。黄河で連年洪水が発生していたため、敬詢は酸棗県の境から濮州にいたるまでの堤防を修築した。長興3年(932年)、任期を満了して洛陽に帰った[1]。長興4年(933年)10月4日、死去した[3]。
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家族
代々振武軍の牙校をつとめた。
脚注
伝記資料
参考文献
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