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徳大寺実厚
日本の華族(公爵) ウィキペディアから
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徳大寺 実厚(とくだいじ さねあつ、1887年〈明治20年〉12月10日[1] - 1970年〈昭和45年〉3月15日[1])は、日本の華族(公爵)。正四位。徳大寺公弘の長男。戸籍上の表記は德大寺 實厚。
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経歴
東京府出身。麹町小学校卒業。 1908年(明治42年)に陸軍騎兵少尉、1925年(大正14年)に少佐、1929年(昭和4年)に中佐に昇進。宮内省に転じ、1931年(昭和6年)に式部官、1932年(昭和7年)に昭和天皇の侍従となる[2]。1937年(昭和12年)3月1日から貴族院公爵議員[3]。戦中は陸軍騎兵中佐に任じられた。
1946年(昭和21年)2月25日、掌典長に任じられた[4]。5月8日、貴族院議員を辞職[5]。8月12日、掌典長を依願辞職した[6]。公職追放となる[注 1]。
平安神宮宮司を務めた。1960年(昭和35年)11月10日、掌典長に還任し、1968年(昭和43年)9月10日まで務めた[8]。墓所は黒谷墓地[9]。
親族
叔父に高千穂宣麿・徳大寺則麿(男爵)・徳大寺彬麿(建築家)が、叔母に順子(公爵鷹司熙通夫人)・祚子(侯爵佐竹義生夫人)・蓁子(三井高従夫人)・治子(子爵松平頼孝夫人)・伊楚子(公爵島津忠重夫人)が、大叔父に西園寺公望・住友友純・末弘威麿がいる。
系譜
東山天皇の男系九世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
栄典
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
脚注
参考文献
関連項目
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