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戦時転住局

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戦時転住局(せんじてんじゅうきょく、: War Relocation Authority略称: WRA)は、第二次世界大戦中のアメリカ合衆国に存在した、日系人の強制収容を運営するために設立された政府機関。また、ニューヨーク州オスウェゴに設置されていた、同国内で唯一ヨーロッパ出身の主にユダヤ系避難民を対象とした難民キャンプだった「フォート・オンタリオ緊急難民避難所英語版」も運営していた[1][注釈 1]

1942年3月18日に、フランクリン・ルーズベルト大統領による、『大統領令9102号英語版』への署名に基づき設立。1945年6月26日に、ハリー・S・トルーマン大統領の命令により、解散した[2]

編成にあたって

要約
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カリフォルニア州ヘイワードで、収容所へ移送するバスを待つ持田一家の子供たち。手には、地元教会の婦人会から配られたサンドイッチが握られている(1942年5月8日、ドロシア・ラング撮影)

1941年12月7日の真珠湾攻撃の後、ルーズベルト大統領は国家の安全保障を脅かす可能性がある、特定の人々を排除できる区域を、軍司令官が設定することを認める『大統領令9066号』を、1942年2月19日に発令。それに伴い、カリフォルニア州オレゴン州ワシントン州の全域とアリゾナ州南部を「軍事地域1及び2」に指定。当該区域に住む日系人に対して、「退去」が予定されていることが通告された。間もなくして、同令はアラスカ準州にも適用されることとなり、西海岸全域が日系人の立ち入り禁止区域となった。

WRAは、実質的に「公共事業促進局 (WPA)」の後継機関であることから、設立当初は、双方が所管する業務の多くが重複していた。設立から約半年までのWPAは、職員を立ち退きと収容の現場に立ち会わせた。収容所の職員も、ほぼWPAの関係者のみで占められていた。また、各収容所に監視塔やスポットライトを設置したことも、ニューディール政策下における道路建設での前例を活かしたものだった。1942年末から1943年初頭にかけて、職員の多くがWRAに移籍した[3]

初代局長となったミルトン・S・アイゼンハワー英語版は、日系人を一律に強制収容所に抑留させる方針には反対だった。アイゼンハワーは早い段階で、抑留の対象を成人男性に限定し、女性と子供は対象から外すことを試みたが、失敗に終わった。また、

  • 「収容所を、国内の農村部の自給自足的な入植地に、類似したものにする」という、WRAによる当初の方針を堅持する。
  • 日系人の再定住を、極度の労働力不足に悩む、排除区域外における農村地域や工業地帯の支援に繋げる。

という提案も、1942年4月にユタ州ソルトレイクシティで行われた会議で、コロラド州知事ラルフ・L・カーを除く内陸部の州知事たちから、「治安上の懸念から、実現は不可能」であるとして、反対を受けた。その会議の直前に、アイゼンハワーは嘗ての上司であるクロード・R・ウィッカード農務長官へ宛てた手紙の中で、

戦争が終わり、12万人という前例のない大規模な立ち退きを冷静に振り返った時、アメリカ人として、避けられなかった不正義を悔いることになるでしょう。

と綴った[4][5]

それでも、アイゼンハワーは日系アメリカ人市民同盟と協力し、「抑留者諮問委員会」を設立。抑留された日系人の賃金引き上げや、大学在学中の2世を対象とした学生休学制度の導入、戦後の再定住プログラムを創設するよう、連邦議会に請願した。また、ルーズベルト大統領に向け、アメリカに忠誠的な2世を支持する声明を発表するよう働きかけたほか、連邦準備銀行には、立ち退きを余儀なくされた日系人たちが残した財産の保全を依頼した。しかし、前述した全ての提案に対する反対意見を、覆すことはできなかった[4][5]

酷く落胆したアイゼンハワーは、1942年6月18日にWRA局長を辞任。後任となったディロン・S・マイヤー英語版は、終戦まで同職を務めた。1942年春までに、日系アメリカ人はすでに西海岸の自宅から退去させられ、陸軍の別の軍事機関である「戦時民事監督局[6] (WCCA)」が運営する一時的な「集合センター」へと収容されており、マイヤー局長の主たる任務は、その職に就いた後、WCCAが運営する「集合センター」のより恒久的な代替施設の計画および建設を引き続き進めることであった[7]

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建設候補地の選定

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マンザナー強制収容所

WRAは、300か所の候補地を検討した結果、主にインディアン居留地に位置する、計10か所に収容所を設置することを決定した。選考の基準としては、

  • 公共事業・農業・製造業における雇用創出能力がある
  • 適切な交通手段・電力設備、良質な土壌・水・気候が確保された、十分な面積を有している
  • 最低でも、5,000人を収容可能
  • 公有地

であることが考慮された[8]

収容所の建設は、ゼロから始めなければならなかった。戦時中の労働力と木材の不足に加え、建設プロジェクトの規模も大きかった[注釈 2]ため、集合センターから移送が始まった時点では、多くの施設が未完成のままだった。例えば、マンザナー強制収容所では、建設作業に抑留者が動員された[7]

収容所での生活

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手作りのプランタードイリー英語版、祈りの言葉が綴られたイエス・キリストの肖像画、家族への手紙が添えられた、米滿ロバート丈雄上等兵の写真。兵役に就くことは、収容所から離れる許可を得るための、数少ない手段の一つだった。

収容所の生活環境は、劣悪なものだった。運良く仕事に就くことが叶った人々も、農場での長時間労働を強いられた。一部の抑留者が、警備員への抵抗や脱走を試みる事例もあったが、大半の日系人たちは、そうした動向には関心を持たなかった。日系人たちにとっては、粗末な造りだった居住棟の改善や教育機会の確保、収容所からの解放に備えることといった、日常生活における諸問題の解決が、最優先事項だった。就労者の中でも、特に責務が高かったり、使命感を抱かせるような仕事に就いていた人々は、仕事を生活の中心に据えていた。しかし、賃金は収容所外で受給できるはずの額よりも、意図的にかなり低く設定されていた。これは、戦時中の物資不足に多くのアメリカ国民が苦しんでいる中で、「日系人だけが特別扱いされている」という流言が広がっていたことへの、WRAの措置によるものだった。月収の面では、非熟練労働者が8ドル、技術職が12ドル、医師や歯科医師といった専門職が16ドルだったが、その後12ドル・16ドル・19ドルにまで、各々引き上げられた[7]

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トゥーリーレイク収容所で催された収穫祭パレードにおいて、江戸時代の町民に扮した子供たち(1942年10月31日撮影)

日系人の多くは、宗教を心の拠り所とするようになり、キリスト教仏教の礼拝が定期的に行われた。また、アメリカ化歴史政治に関する講座、秘書簿記などの職業訓練、華道茶道などの趣味講座といった、様々なカルチャーセンターが立ち上げられ、趣味に没頭したり、自己啓発に励む者も多かった。若者たちは、レクリエーションに時間の多くを費やし、収容所における新聞の記事は、各種スポーツ・演劇ダンスに関するもので埋め尽くされていた[4]

居住棟は、兵士の短期滞在を想定して建てられたもので、子供や高齢者のいる家族が住むには、適さない環境だった。大部分の家族は、天井にも届かないような板で、隣の“アパート”と仕切られた、6メートル四方の部屋に押し込まれ、プライバシーは皆無だった。例えば、1943年4月のトパーズ強制収容所における、1人当たりの平均居住面積は、約10.6平方メートルに過ぎなかった[4]

抑留者たちは、ブロックごとに割り当てられた、複数設けられた共同食堂の何れかで食事を摂った。WRAが運営する収容所では、1人当たりの食費を1日50セント(現在の価値で約9ドル)と定められていた。一方、「トラブルメーカー」と見なされた者たちを収容した、ユタ州モアブに置かれた隔離センターでの同費用は、38.19セントと推定されていた。これも、抑留者を「甘やかしている」という風聞を否定するための措置だったが、実際には収容所内の農場で栽培された食糧だけで、食事を賄えていたという[4][7]

WRAは、抑留者に日本で言うところの町内会を組織させ、選出された自治会長が収容所長の下で、その運営を補佐することとなった。これにより、抑留者は毎日を忙しく過ごすことが叶い、日常生活に関しても、一定の意見を述べることが可能となった。これは同時に、戦後に白人社会へ同化出来るよう、日系人を「アメリカ化」させるという、WRAの方針にも合致したものだった。しかし、「敵国人」であった1世は、役職に就くことが禁じられていた。抑留者と地域社会学者は、WRAが重要な問題で実権を握り、2世の指導者たちには、最も基礎的かつ些細な決定しか任せていないと主張した[7]

外部有識者による抑留者の観察

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ヒラリバー戦争移住センターを訪問する、マイヤーWRA局長とエレノア・ルーズベルト大統領夫人(1943年4月23日撮影)

1943年2月に、WRAは10か所ある収容所に抑留されている、日系人の生活に関する情報を収集するため、コミュニティ管理部の傘下に「コミュニティ分析課 (CAS)」を設立した。ジョン・エンブリーモリス英語版/マーヴィン英語版のオプラー兄弟、マーガレット・ランティス英語版エドワード・H・スパイサー英語版ウェストン・ラ・バール英語版といった、20人以上の文化人類学者や社会科学者を雇用し、抑留者への観察と聞き取り調査により、データを収集。収容所における教育やコミュニティの構築、アメリカ化の取り組みに関する報告書を作成した。

分析にあたった学者の一部は、抑留者を単なる研究対象としか見ていなかった。だが、その多くは、強制収容そのものやWRAによる政策の一部に、反対する意見を報告書に記した。但し、こうした批判を公の場で口にした者は、殆どいなかった。CASは、連邦監査官やWRAの弁護士から、収容所における調査結果を公表することを制限されていたため、作成された数少ない報告書の大部分は、「日系人の大半は、有刺鉄線の中での生活に満足している」という、WRAの公式見解に反する内容ではなかった。しかし、モリス・オプラーは例外的に、平林ゴードン潔是松フレッド豊三郎連邦最高裁において、排除に異議を唱えた2件に関する法的意見書を執筆した[9]

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再定住支援プログラム

収容所に留まる期間が長期化するほど、抑留者たちによる連邦政府への依存度が、高まることを懸念したマイヤー局長は、日系人たちに収容所から出て、排除区域外の地域社会に再定住するよう促した。「再定住センター」が設立されるより以前から、農場での労働者にはWCCAから、一時的な就労許可証が発行されていた。カリフォルニア大学ワシントン大学アメリカ・フレンズ奉仕団が設立した「全米日系学生転住協議会」は、WRAと連携し、大学在学中に立ち退きを余儀なくされた2世たちを、1942年秋から排除区域外の各大学に入学させていた。WRAは1942年7月より、独自の「外出許可」制度を開始したが、その後数か月かけて手続きが簡素化されるまで、わずかな人々しか煩雑な申請手続きを行おうとしなかった[7][注釈 3]

より利用しやすいシステムの必要性に加え、収容所からの退所者を制限するよう求める、抑留推進派の政治家や一部の市民からの圧力もあって、1943年に申請手続きが改訂された。当初、申請者は外部の保証人を見つけ、雇用証明書または在学証明書を提示し、FBIによる身元調査に合格する必要があった。新しいシステムでは、抑留者は登録用紙に記入し、簡素化されたFBIの身元調査に合格するだけで済むようになった。この用紙は、再定住資格の有無に関わらず、全ての成人に義務付けられたため、「忠誠登録」と呼ばれるようになり、後に全収容所において、抗議活動が起こる原因となった[10]

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ジェローム強制収容所の閉鎖にあたって、友人との別れを惜しむ子供たち(1944年6月19日撮影)

この時点で、WRAは収容所の運営から再定住の支援へと、職務の重点を移し始めた。シカゴやソルトレイクシティの他、日系人の再定住者が集まった拠点に現地事務所が設置された。事務所長は、社会福祉機関に加え、住宅・雇用・教育の各スポンサーと協力して、支援を行った。 マイヤー局長による「アメリカ化」という指示に従い、WRAの役人たちのネットワーク(および収容所内で流布されたプロパガンダ)は、退所者に日系人の人口が少ない都市への再定住を促す一方、日系人同士で固まって過ごしたり、日本語で会話をする、その他の方法で文化的な繋がりを保持することは、控えるよう警告した[7]。1944年末までに、約3万5,000人が収容所を離れ、そのほとんどは2世だった[10]

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抵抗運動の多発

要約
視点

WRAによる「アメリカ化」の対象は、アメリカ市民権を持つ2世だけではなかった。マイヤー局長をはじめとするWRAの高官たちは、白人の価値観と習慣を受容することが、日系人が再定住後に、各地域に溶け込むうえで、最善の道筋であると考えていた。WRAは、

  • 愛国的な活動やカルチャークラスへの後援
  • 1世向けの英会話教室を設置・運営
  • 若者にアメリカ軍への志願を奨励

を旨とした収容所運営を推し進め、抑留者自身による自治を、アメリカ民主主義の好例として喧伝した。WRAに従順な「模範的抑留者」には、優遇措置が取られた一方で、抑留に抗議する「トラブルメーカー」や、戦前は日系コミュニティの指導者であったものの、収容所ではそれまでのリーダーシップを失った1世の長老たちは、安全保障上の脅威と見なされた。劣悪な労働条件と低賃金、不十分な住環境、看守が抑留者の食糧を掠め取っているという風聞は、収容所内でWRA支持派と反対派による対立が生じる結果を招いた。1942年11月 - 12月には、ポストンとマンザナーで、WRAとの共謀の疑いのある人物が、他の抑留者から暴行を受けた[12]。翌1943年にも、ポストントゥーリーレイクジェロームでは労働ストライキが発生するなどした。こうした事態を受け、WRAは各方面から批判を浴びることとなり、下院非米活動委員会による2件の議会調査と、民主党ハッピー・チャンドラー連邦上院議員の主導による調査が行われた[7]

上述した、抑留者たちから「忠誠登録」と呼ばれた出所申請書は、抑留中の日系人の間に混乱を招いた。当初は、戦争省の募集ツールとして起草された28の質問は、抑留者の忠誠心を評価するという新たな目的のために、拙速かつ粗雑に改訂された。「忠誠登録」の設問は、回答者が「真のアメリカ人」であるかどうかを判断することにその大半が費やされており、野球柔道ボーイスカウト日本語学校などに関する質問も含まれていたが、

質問27:貴方は命令を受けたら、如何なる地域であれ、合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?

質問28:貴方は合衆国に忠誠を誓い、国内外における如何なる攻撃に対しても、合衆国を忠実に守り、且つ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?

という2つの質問に、抑留者たちの怒りの矛先が向かった。多くの抑留者は、自身と家族から財産を奪った挙げ句、人里離れた収容所に抑留した国から、命をなげうつよう要求されたことに憤慨。「忠誠登録」を、母国から暗に向けられた「アメリカに対して不誠実であった」という批判だと解釈した。大半の抑留者は、両方の質問に「Yes-Yes」と回答したが、うち15%は回答を拒否するか、片方または両方に「No」と回答した。戦争省からの圧力により、マイヤー局長は渋々ながら、1943年9月にトゥーリーレイクをいわゆる「No-No組」のための厳重警備隔離センターに変えた[7]

9か所の収容所からは、約1万2,000人がトゥーリーレイクに移送されたが、「Yes-Yes組」となった同収容所における元来の居住者のうち、別の収容所への移送の申し出を受け入れたのは、わずか約6,500人だった。その結果、トゥーリーレイクは過密状態[注釈 4]となり、WRAに対する不満の高まりと、労働への士気の低下が、更に深刻化した[13]。1943年10月には、労務中に事故死した男性抑留者の未亡人が受け取った補償金の額が、あまりにも少なかったことに端を発し、抑留者が大規模なストライキを実施した。事態の収拾を図るべく、トゥーリーレイクの管轄権はWRAから軍へ移行され、11月14日には収容所一帯に戒厳令が敷かれた。軍による統制は2か月にわたり、その間に約350人が収容所内の営倉に監禁、約1,200人の1世が司法省が管轄する敵国人抑留所へ送致された。ストライキとは無関係な抑留者たちも、夜間外出禁止令や予告なしの捜索を受けることとなった[14]。翌1944年5月には、トゥーリーレイクにおいて全ての集会が禁止され、学校・職場・スポーツ・レクリエーションも閉鎖された。7月には、ルーズベルト大統領が『1944年市民権放棄法』に署名。これによって、日本への傾斜を強くした一部の収容者は、帰米2世による「報国青年団」や1世による「即時帰国奉仕団」といった、親日派集団を形成。軍事訓練やWRAに対する抗議デモの実施、収容所内で多数派を占めていた「Yes-Yes組」の残留グループや消極的な「No-No組」に対する脅迫行為を行った[15]。最終的に、終戦までにアメリカ市民権の放棄と、日本への帰国を申請した5,589名のうち、97%がトゥーリーレイクの抑留者だった[16]

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解散

西海岸では、1945年1月2日に日系人の立ち入り禁止が解除された[注釈 5]。1945年7月13日にマイヤー局長は、日本へ送還させる予定の「No-No組」を抑留していたトゥーリーレイクを除く、9か所の収容所を、同年10月15日から12月15日の間に閉鎖すると発表した[注釈 6]。帰る場所がなく、再定住する準備が出来ていないと感じた抑留者からの大規模な抗議にも関わらず、WRAは彼らが収容所から強制的に退去させられ、西海岸に送り返されるまで、最低限の支援を除き、あらゆる事業を段階的に縮小させた[7]

1946年3月20日に、トゥーリーレイクは閉鎖。同年6月26日には、トルーマン大統領が『大統領令9742号』に署名し、WRAは解散した[17]

収容所の一覧

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日系人収容所所在地地図

開設日の早い順[18]に、収容所名(英語名。日本語の項目がないものは英語版へのリンク):所在地を特定するのに役立つ地域もしくは近隣の町の名、州名、最大収容者数、開設日-閉鎖日 の順に記す。

短期仮強制収容施設

強制収容所は、トゥーリーレイクの1946年3月20日を最後に、全てが閉鎖された。

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関連項目

脚注

参考文献

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