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戸塚カントリー倶楽部
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戸塚カントリー倶楽部(とつかカントリーくらぶ)は、神奈川県横浜市旭区大池町に広がるゴルフ場である。

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概要
戸塚カントリー倶楽部が広がる旭区は、八王子市の高尾山から連なる多摩丘陵に位置し標高は63.5mである。中央を帷子川が縦断し、西部は上瀬谷通信施設跡地の広大な草原地帯が広がり、市街化調整地域が設定された生産緑地、公園、山林となっており、区内には川井矢指、今井大池名瀬、三保新治の3つの風致地区があるため、横浜市内では緑被率が2番目に高い。
1958年(昭和33年)代、旧制七高生たちが言い出した「新幹線が通ったら戸塚辺りに駅ができる」、「東西財界の交流も多くなるが、「霞ヶ関カンツリー倶楽部」では遠すぎる」といって、「戸塚にゴルフ場を造ろう」と言い出したことに始まる[1]。
株式会社三和銀行(現・株式会社株式会社三菱UFJ銀行)・渡辺忠雄、株式会社電通・吉田秀雄らで財界人が集まった[1]。1958年(昭和33年)11月19日、新たなゴルフ場の建設に向けて「神奈川開発観光株式会社」を設立、社長に三輪眞吉が就任したが、すぐ健康を害して吉田に交代した[1]。
ゴルフ場の建設用地は、神奈川県横浜市の相模と武蔵の界で、九十九谷戸である[1]。ところが、芝を植えるには不向きな土壌で「こりゃダメだ」と、コース設計の井上誠一が言ったが、吉田は「悪いコースでもいいから造る」と言った[1]。だが、用地の買収が進まなかった、36ホール全ての設計を井上誠一に依頼するはずだったが、買収のまとまりの早い川上コース(アベレージコース)の設計を間野貞吉に依頼し、名瀬コース(チャンピオンコース)は纏まった段階で設計を井上誠一に依頼することにした[1]。
1959年(昭和34年)10月7日、コース施工の地鎮祭が執り行われた[1]。1961年(昭和36年)12月20日、川上コース(現・東コース、設計・間野貞吉)18ホールが完成し、開場した[1]。1962年(昭和37年)10月11日、名瀬コース(現・西コース、設計・井上誠一)18ホールが完成し、開場した[1]。クラブハウスの設計は丹下健三、建物の巨大さと奇抜さで世間を驚かせた[1]。コースは丘陵コースで、アップダウンは大きくないが、うねりのあるフェアウェイが難易度を高めている。
2020年(令和2年)4月10日、新型コロナウイルス感染拡大の予防、来場者の健康と安全を考慮して、4月14日よりクローズを決定した。4月22日、クローズ期間を5月7日迄とした。政府発表によっては、クローズ期間延長の可能性もある。5月5日、クローズ期間を延長し5月14日迄とし、5月15日より、会員及び会員登録家族のみの営業とした。5月21日、6月2日より営業緩和された[2]。
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所在地
〒241-0834 神奈川県横浜市旭区大池町26番地
コース情報
クラブ情報
ギャラリー
- コース - 「戸塚カントリー倶楽部」、東コース、「戸塚カントリー倶楽部」、西コース
- ハウス - 「戸塚カントリー倶楽部」、施設案内
交通アクセス
鉄道
道路
メジャー選手権
- 1975年(昭和50年) - 第1回 日本プロゴルフマッチプレー選手権大会[9]
- 1976年(昭和51年) - 第2回 日本プロゴルフマッチプレー選手権大会[9]
- 1977年(昭和52年) - 第3回 日本プロゴルフマッチプレー選手権大会[9]
- 1978年(昭和53年) - 第4回 日本プロゴルフマッチプレー選手権大会[9]
- 1979年(昭和54年) - 第5回 日本プロゴルフマッチプレー選手権大会[9]
- 1980年(昭和55年) - 第6回 日本プロゴルフマッチプレー選手権大会[9]
- 1981年(昭和56年) - 第7回 日本プロゴルフマッチプレー選手権大会[9]
- 1982年(昭和57年) - 第8回 日本プロゴルフマッチプレー選手権大会[9]
- 1986年(昭和61年) - 第51回 日本オープンゴルフ選手権競技大会[10]
- 2005年(平成17年) - 第38回 日本女子オープンゴルフ選手権競技大会[11]
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エピソード
高所作業事故
脚注
関連文献
関連項目
外部リンク
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