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敬暉

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敬 暉(けい き、生年不詳 - 706年)は、唐代官僚政治家は仲曄[1]本貫絳州太平県[2]

経歴

弱冠にして明経に挙げられた。聖暦元年(698年)、衛州刺史に累進した。ときに河北に突厥の侵入があり、このため秋になっても城の修築を中止しない状況だったので、敬暉は収穫を優先して城郭の修繕を取りやめさせた。夏官侍郎に転じ、秦州刺史として出された。大足元年(701年)、洛州長史に転じた。武則天長安に行幸すると、敬暉は知副留守事をつとめた。職にあっては清廉有能なことで知られた。長安3年(703年)、中台右丞に任じられ、銀青光禄大夫の位を加えられた[2][1]

神龍元年(705年)、敬暉は右羽林将軍に転じた。張易之張昌宗兄弟を討った功により、金紫光禄大夫の位を加えられ、納言に抜擢され、平陽郡公の爵位を受けた。ほどなく斉国公に進封された。敬暉らは唐室の中興にあたって、武氏の諸王の爵位を降格するよう求める上奏をおこなった。これにより武氏の諸王は公に降格され、武三思に憎まれた。敬暉は爵位を平陽郡王に上げられたが、知政事を退任することになった。武三思は韋皇后の助けを受けて宮中に入り、宰相の事務をおこなうようになった[3][1]

神龍2年(706年)、王同晈が武三思の殺害を計画して、事が漏れると、武三思は敬暉や桓彦範袁恕己らを連座させた。敬暉は崖州司馬に左遷され[4]、さらに瓊州に流され、武三思の命を受けた周利貞により殺害された。景雲元年(710年)、睿宗が復位すると、敬暉は平陽郡王の官爵をもどされ、秦州都督の位を追贈された。は粛愍といった。建中元年(780年)、重ねて太尉の位を贈られた[5][1]

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脚注

伝記資料

参考文献

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