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文明の内訌
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文明の内訌(ぶんめいのないこう)は、15世紀後期の文明年間に諏訪氏内部で勃発した内乱。諏訪大社大祝家の諏訪継満及びこれに与同する高遠継宗・金刺興春らと、諏訪惣領家の諏訪政満や矢崎氏らが抗争した内訌である。
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経緯
室町時代初期までは、諏訪家惣領が大祝職を兼任していたが、諏訪有継の代以降は惣領家が大祝に就任することがなくなり、さらに諏訪・金刺の上下社家間でも抗争が発生するなど、諏訪家は内乱が巻き起こっていた。
諏訪惣領家は伊那の松尾小笠原氏と結ぶ一方、金刺家は府中小笠原氏の支援を得ており、諏訪郡周辺のみならず信濃の広域を巻き込む動乱となった。
さらに、惣領家の諏訪信満と大祝家諏訪頼満(伊予守)の対立が勃発する。この対立構図はそのまま次代の政満(信満子)と継満(頼満子)に継承され、さらに周辺国衆や金刺家も加わり、暗闘はより熾烈なものとなっていった。
内訌の開始
諏訪継満の軍事行動と勢威拡大
大祝・諏訪継満は、対外勢力に対して軍事行動を起こした。文明11年(1479年)、継満は鈴岡小笠原政秀を支援するべく、高遠継宗らと共に伊賀良荘へと出陣、さらに松尾小笠原家長を攻め、9月5日には「悉く(欠字)十八郷食され…」などの戦果を挙げた[1]。継満・政秀の攻勢により家長は戦死する。
金刺興春らの上社襲撃事件
文明12年(1480年)には、継満と結ぶ諏訪大社下社の金刺興春および、塩尻の赤□祢(赤羽氏?)が突如として諏訪上社を焼き討ちし、西牧満兼の精進屋が焼け落ち、さらに上社に参じていた多くの人々が虐殺される事件が発生した。
文明12年(1480年)2月6日、金刺らは大橋爪において放火し、略奪を行う。このとき、負傷あるいは死亡する者が続出する惨劇となった。馬場刑部屋敷で火は焼け止まったが、西牧氏の精進屋が焼け落ちる被害が出た[2]。
3月5日には、金刺勢は再度上社周辺を襲撃し、御頭祭の最中に西大町へと放火を行う。西大町は焼け崩れ、神長官守矢満真ら上社の諸人や男女は必死に逃走するも、神原にて多くが射殺あるいは斬殺、さらに太刀や衣服を略奪され、上社一帯は死屍累々の有様で、阿鼻叫喚の嵐となった[2]。
諏訪政満派および継満派の各抗争
一方、惣領家の諏訪政満は、府中小笠原長朝と山家光家が争うと、山家氏を援けて文明13年(1481年)4月19日に筑摩郡府中へと出陣。さらに、仁科氏・香坂氏といった有力国衆も政満に呼応し、長朝方の和田城を攻めている[3]。
文明13年(1481年)8月20日、継満派の高遠継宗が伊那の山田有盛と戦っており、継宗を長朝が支援し山田氏を攻めるも十騎余が討死、高遠勢も継宗の三男を含む六騎が戦死し敗退している[4]。
文明14年(1482年)には、政満は千野氏・保科貞親ら60騎を派遣し、高遠継宗と合戦させる。三枝・笠原・藤沢などが千野方に同心し、政満方は継宗を撃破、保科氏が藤沢城を入手するなどの戦果があった[5]。
この合戦については、「保科の子共連々緩怠につき、信州(継宗)の御意に背き、大祝殿(継満)・千野入道高遠に御越ありて、かの面々訴訟申し候えども叶わず候間、保科・千野同心心得て帰られ候」などと記されており、高遠家重臣の保科氏の「緩怠」と継宗の「御意」への背反、『かの面々』の継満・千野への訴訟、そして千野・保科の同心など、諏訪・上伊那の諸士の様々な潜在的要因や対立・思惑のすえに勃発したとも考えられる。
同年8月15日には、小笠原長朝が継宗を支援してふたたび山田城を攻めるも、小笠原勢十一騎、高遠勢五人が討ち取られて、再度敗退した。
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諏訪政満暗殺と継満・金刺氏の没落、内訌の決着
要約
視点
諏訪政満一党の暗殺
政満派と継満派の争いは一進一退であったが、状況を決定的に動かす事変が起こる。
文明15年(1483年)1月8日、諏訪神殿において、諏訪政満と嫡男宮若、小太郎ら「御内人」十人余りが、諏訪継満の命令を受け神殿内で待ち伏せていた矢崎氏・有賀氏・矢島氏によって殺害された[6]。
諏訪継満の没落、金刺興春の戦死 諏訪惣領家による諏訪郡平定
継満による政満謀殺事件が原因となり、諏訪の諸士のうち少なくない者が反継満の姿勢を鮮明にした。文明15年(1483年)2月19日、矢崎政継・千野氏・有賀氏・小坂氏・福嶋氏・神長官守矢氏が継満打倒を目指し決起。継満居城である干澤城に押し寄せる[7]。
継満らは油断していたのか、矢崎勢らを前に一戦も交えることなく城から退き伊那郡に逃亡した。その一方、継満の父・頼満は重病に冒されていたが、容赦なく討たれている。また、大祝一行の逃避行は、継満の老祖父、老母や幼児が途上で亡くなるなど、悲惨なものであったという。
この大祝家の無惨な没落を守矢満真は哀れみ、「守矢満真書留」において、「豫州(伊予守、討たれた諏訪頼満のこと)御生涯、御身上、敵味方思い惑うこと芳々」、また雪中を逃げる継満を思って「先立つ涙は両袖に満ち、歩まんとすれば雪は山野に降り満ち、濡れて歩みたるその有様痛わしく…」と記している[7]。
3月19日には下社の金刺興春が継満を援助するべく、百騎余りの手勢を統率し上諏訪桑原の武津を放火する。さらに高鳥屋小屋に進軍・着陣するなど、諏訪惣領方に猛攻を加えた[8]。
これに対し、干澤城を占拠していた矢崎神平、神二郎、有賀兄弟、小坂兄弟ら17騎を中心とした諏訪神党の軍勢が迎撃に向かい、興春と合戦に及ぶ。
この戦いで、金刺勢は興春を含めた兄弟3騎や舅の対馬守とその弟大和守、武居六騎、甕井氏ら32人が戦死し、野臥らも13人が討たれる大敗を喫した。諏訪惣領方の軍勢は、福嶋氏の一族と野臥が数人戦死したのみで、大きな被害は無かった[8]。
合戦の翌々日である21日、諏訪惣領家は諏訪下宮を焼き討ちにし、下宮一帯は灰燼に帰した。興春の首級は大熊城に二日ばかり晒され、守矢満真は、3年前に興春らが上社を襲撃・放火したことが因果として巡った、と記した。
こうして、大祝家・下宮金刺家が諏訪惣領の一党により打倒されたことで諏訪郡平定が成り、府中小笠原長朝も諏訪上社を支持するに至った。
継満派の軍事行動
文明16年(1484年)5月3日、伊那郡に逃れていた継満は、友好関係にあった鈴岡小笠原氏や高遠継宗、伊那国衆知久氏・笠原氏らの支援を得て、300騎余りを率いて片山城に拠り再起を図る。惣領方は干澤城に入り、さらに府中小笠原氏ら安曇・筑摩の諸士の援護を得てこれに対抗した[9]。
未だに対外情勢が不穏な状況の中、同年12月28日、諏訪政満の次男・諏訪宮法師丸が大祝の座に就いた[10]。のちに諏訪惣領として武田信虎らを圧倒し、諏訪家の最大版図を現出する諏訪頼満(安芸守)である。
このように、惣領家とそれを支持する矢崎氏・有賀氏らは順調に諏訪支配を進めていたが、一方で、上伊那の高遠継宗は金刺氏や継満が受けたような大きな被害を受けず、未だ勢力を保っていた。
長享元年(1487年)7月から8月にかけて、継宗は諏訪へと乱入し有賀を攻め、福嶋の地を占領する。惣領方の打撃は大きく、西木氏・中澤氏・高見氏らが戦死する被害が出た[11]。
内乱の終結とその後
諏訪惣領家と対立する勢力のうち、諏訪継満を支持していた小笠原政秀は松尾小笠原氏に謀殺され、府中小笠原家と伊那小笠原家の対立は、諏訪氏を巡る争いから小笠原の一族内紛に変動していった。継満も文明16年を最後に記録に現れなくなり、ここに諏訪惣領家のもとで諏訪郡は平定され、以降50年以上にわたり安定した支配が行われた。
一方、高遠氏と諏訪氏の抗争・対立は、継宗の死後、跡を継いだ頼継の代まで引き継がれる。高遠頼継は、諏訪頼満の勢力が強大になると、頼満の娘を妻に迎えるなど諏訪氏に従う姿勢を見せていたが、天文11年(1542年)の武田晴信による諏訪侵攻が始まるとこれに呼応して侵略を行い、武田氏とともに諏訪氏を滅亡させている。
参考文献
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