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新納忠武
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新納 忠武(にいろ ただたけ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。新納氏7代当主。大隅国志布志領主。
略歴
6代当主・新納忠明の子として誕生。
明応3年(1494年)、都城の北郷数久と共に梅北(現:都城市梅北町)の島津忠明を攻撃。忠明を敗走させると梅北を手にいれる。この時の攻撃によって多くの神社・仏閣が焼失したと言われている。
忠武は飫肥を本拠とする豊州家・島津忠朝と対立していたが、島津宗家にも従おうとはしなかった。永正3年(1506年)、島津氏11代当主・島津忠昌が反乱を起こした大隅高山城の肝付兼久を攻撃したが、忠武が兼久に援軍を送ったため全軍撤退する事になる。こうして新納氏は忠武・忠勝の代に周囲の豪族と争いを繰り広げながら、次第に勢力を拡大していった。
系譜 [1]
- 側室:宇宿氏の娘
- 三男:忠郷(~1541) - 天文10年9月3日山東にて戦死。戒名は竹翁道松
- 生母不明
- 次男:久秋(忠安)(~1528) - 新納氏庶流の新納忠尊の次女を妻としその養嗣子となる。享禄元年5月冷水にて戦死
- 四男:時宗 - 早逝
出典
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