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旭堂南鱗
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旭堂 南鱗(きょくどう なんりん)は、上方講談の名跡。幕末から「旭堂南麟」「田辺南麟」の名前で何代か続いた、初代は旭堂南麟と表記し旭堂の開祖。当代は特に代数は振っていない。
- 初代旭堂南麟 - (1804年 - 1878年8月13日)本名、朝比奈安兵衛。旭堂派の開祖、2代目田辺南鶴の門下。元は旗本であった。息子も講釈師で旭堂明麟といったが、慶應二年、他人の妻と不義を働いて夫に討たれた。その知らせが届いた時南麟は口演中であったが、自若として続きを講じ、そのあとでこの悲劇を打ち明けたのでみな驚いたという。のち大南麟(おおなんりん)と自称した[1]。
- 初代旭堂南麟門下に旭堂南麟の名がある。
- 2代目田辺南龍門下に田辺南麟の名がある。
- 5代目田辺南龍門下に田辺南麟の名がある。
旭堂 南鱗(きょくどう なんりん 1950年8月1日 - )大阪市阿倍野区出身の講談師。本名、今西 久幸。
サラリーマンをしながら3代目旭堂南陵の講談教室に通う。1976年4月に3代目旭堂南陵に入門し南幸と名乗る。その後まもなく南光と改名。1988年に真打昇進し南鱗を襲名。2018年、なみはや講談協会会長。2023年、旭堂南華に会長職を譲り名誉会長となる。
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