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星野龍史

日本の登山家 (1967-2001) ウィキペディアから

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星野 龍史(ほしの りゅうし、1967年11月27日 - 2001年10月14日)は、日本の登山家

概要 星野 龍史(ほしの りゅうし), 生誕 ...

概要

1967年11月27日、群馬県勢多郡黒保根村に生まれる。群馬ミヤマ山岳会に所属、数多くの海外遠征に参加し、8000m峰5座に登頂した。

幼少より絵画が得意で「電気を安全に使いましょうポスター群馬児童作品展」「読書鑑賞画展」などに入賞した。1982年群馬県立桐生工業高等学校入学、山岳部に所属。1986年北関東造形美術専門学校入学後、群馬県ミヤマ山岳会入会。在学中に群馬県勤労者美術展に2年連続入選を果たす。

1990年より、キリマンジャロ、カンチェンジュンガ、サガルマータ西壁、チョー・オユー、サガルマータ南西壁、ウルタルⅡ峰、ガッシャーブルムI峰、ガッシャーブルムII峰、シシャパンマと、海外登山に参加、この間に山のスケッチを続ける。

2001年10月、群馬ミヤマ山岳会ダウラギリI峰登山隊として、北東稜から名塚秀二、東稜から星野龍史、品川幸彦、福本誠志の3名がアタック。北東稜の名塚秀二は10月11日に登頂したが、東稜からアタックしていた3名は10月14日から消息が途絶え、行方不明となる。10月24日に群馬ミヤマ山岳会代表宮崎勉らが現地入りし、ヘリコプターによる捜索を行ったが、3人の生存は絶望的として捜索は打ち切られた。遭難の原因は雪崩か滑落とみられている。星野龍史は3月に結婚したばかりで、山行中に発覚した妻の妊娠を知らされていなかった。ダウラギリ山麓のジョムソンに3名の追悼のために慰霊碑が建てられている。

スポニチ登山学校講師。

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経歴

  • 1967年11月27日 - 群馬県勢多郡黒保根村に生まれる。
  • 1986年3月 - 群馬県立桐生工業高等学校卒業。
  • 1986年4月 - 北関東造形美術専門学校入学。
  • 1986年 - 群馬ミヤマ山岳会入会。
  • 1986年 - 作品「19才の想い」が群馬県勤労者美術展に入選。
  • 1987年 - 作品「精神革命」で群馬県勤労者美術展に連続入選。
  • 1988年3月 - 北関東造形美術専門学校卒業。
  • 1993年10月8日 - チョ・オユー(8501m/チベット)登頂。(群馬県山岳連盟隊:八木原圀明宮崎勉名塚秀二田辺治江塚進介佐藤光由、星野龍史、後藤文明尾形好雄)[1]
  • 1993年12月22日 - エベレスト[南西壁](8848m/ネパール)登頂。冬季南西壁世界初(群馬県冬期サガルマータ南西壁登山隊1993-1994:田辺治、名塚秀二、江塚進介、星野龍史、後藤文明.尾形好雄)[2][3]。日本人最年少記録更新(24歳)。この功績により登山隊には朝日スポーツ賞が贈られた。
  • 1996年7月31日 - ウルタルII峰(7388m/パキスタン)登頂。(カトマンズ・クラブ隊1996:高橋堅、安藤昌之、斎藤渉、堤 信夫、星野龍史)[4]
  • 1997年7月7日 - ガッシャーブルムI峰(8068m/パキスタン)登頂。(群馬県カラコルム登山隊1997:名塚秀二、江塚進介、星野龍史、品川幸彦、宮崎勉)[5][6]
  • 1997年7月14日 - ガッシャーブルムII峰(8035m/パキスタン)登頂。(群馬県カラコルム登山隊1997:後藤文明、尾形好雄、綿貫剛田島崇行、名塚秀二、宮崎勉、馬場保男岩崎栄、江塚進介、星野龍史、品川幸彦)[7]
  • 1999年10月29日 - シシャパンマ(8027m/チベット)登頂。(群馬県冬季マナスル登山隊2000:星野龍史、名塚秀二、後藤文明、剣持典之福本誠志)
  • 2001年10月14日 - ダウラギリI峰[東壁](8、167m/ネパール)登山中、星野龍史、品川幸彦、福本誠志の3名が行方不明となる。
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関連書籍

  • 桐生工業高校山岳部OB星野龍氏作品集を出版する会編『星野龍史作品集エチュード聖地巡礼』(2004/6、星野なみ子・恵子)

脚注

関連項目

外部リンク

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