トップQs
タイムライン
チャット
視点
曽和義弌
教育者、政治家 ウィキペディアから
Remove ads
曽和 義弌(曾和、そわ ぎいち、1888年(明治21年)6月16日[1] - 1968年(昭和43年)1月21日[2])は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、大阪府南河内郡高向村長。
経歴
大阪府[2]錦部郡、のちの高向村(南河内郡高向村[3][4]を経て現河内長野市)で生まれる。
小学校代用教員となる[3]。以後、同訓導、市立堺女子手芸学校教諭、府立大阪医科大学書記、滝畑尋常高等小学校長などを歴任[2][3]。
大阪府会議員に選出され、高向村長も務めた[2][3][4]。河陽新報を創刊し経営を行った[2][3]。
1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、立憲政友会公認)で当選し[5]、その後、翼賛議員同盟に所属し衆議院議員に1期在任した[2][3]。戦後に公職追放となった[6]。
国政選挙歴
- 第19回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、1936年2月、立憲政友会公認)落選[7]
- 第20回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、1937年4月、立憲政友会公認)当選[5]
- 第21回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、1942年4月、推薦)次点落選[8]
- 第25回衆議院議員総選挙(大阪府第4区、1952年10月、自由党)落選[9]
著作
- 『日本神道の革命』大日本新思想学会、1961年。
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads