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曽根定丸

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曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不詳)は愛媛県出身の民間飛行家。1925年、愛媛県下初の認可飛行場を開設し、後に南米ペルーへ移民として渡った。

来歴

要約
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1904年(明治37年)12月4日、愛媛県喜多郡宇和川村で生まれる[1][2]。1922年(大正11年)には東京蒲田駅前にある日本自動車学校航空科へ入学し、機体及び発動機に関して学ぶと同年卒業[3]。続いて同年12月に千葉市寒川海岸で飛行練習場を開いていた白戸栄之助の門下となり、練習部及び研究科で研鑚を積む。1923年(大正12年)9月、関東大震災の影響で同所が閉鎖となると、定丸は白戸により同県津田沼の伊藤音次郎に委託された。同年11月に三等飛行機操縦士の試験を受け、12月付けで航空局より免状を得る[3]

1924年(大正13年)4月にニューポール83E2型を購入し、喜多号と名付けた定丸は郷土飛行を計画。9月末に機体が喜多郡大洲町肱川河原に到着し、10月3日から6日間の実施を予定した。故障とその修理で日程が遅れたが、大洲町周辺で何度か飛んで出生地の宇和川村も訪問。11月上旬には東宇和郡の宇和町、及び松山の城北練兵場まで飛行し大歓迎を受けた[3][4]。1925年(大正14年)1月11日、伊予郡松前町徳丸の重信川河川敷、通称・横土手に愛媛飛行場を開設[5]。幅60m、長さ1kmで、河原を地ならししただけの簡易なものであったが、航空局の認可を得た飛行場としては県下第一号であった。同時に愛媛飛行練習所も開設。三等飛行機操縦士の免状を持つ定丸が所長兼教官に就任し、機体技師兼飛行助教に伊予郡原町村出身の西松唯一[注釈 1]、発動機技師兼飛行助教に新潟県出身の神林清。温泉郡三津浜町で飴製造業をしていた門屋周次郎が金銭的な支援を行った。

当時飛行機に乗るということは命の危険と隣り合わせであり、卒業までにかかる費用750円は大金であった。入所者はなかなか現れなかったが、開業から半年ほど経った1925年8月、松山商業を卒業して間もない藤田武明が練習生第一号となった[注釈 2]。練習機は当初喜多号一機だけであったが、7月には注文していた陸軍払い下げのアブロ式504K型機が三津浜港に到着。二機体制となる。

小資本の練習所にとって怖いのは頻発する事故だった。その度に大きな修理費用がかかり、練習は滞る。定丸たちは常に金策に走り回っていた。1925年9月13日には助教の西松が単独飛行で着陸に失敗。身体は無事だったが機体は大破した。翌1926年(大正15年)に入る頃には喜多号が使えなくなり、一機残ったアブロ式も4月10日に山口県萩市で墜落大破。これは郷土飛行をしたいという校外の飛行士に貸した際のこと[注釈 3]だったが、使用できる機体が無くなった結果、愛媛飛行場及び愛媛飛行練習所は同年5月18日をもってやむなく解散[注釈 4]。定丸は未だ練習中だった藤田を千葉県津田沼の伊藤音次郎に託した[注釈 5]

心機一転を期する定丸は1927年(昭和2年)6月、義兄・清水類次郎の誘いで太平洋を渡り、南米・ペルーに移住[注釈 6]リマのアバンカイ通りにあった義兄の時計店で働き、数年後には帰国する義兄より店を受け継いで店主となる[15]。その後、1935年(昭和10年)度の愛媛県人会会長[16]に選出され、貯蓄組合を設立するなど実績を残した。しかし、第二次大戦の激化と共に日系人への風当りは厳しくなり、ついに北米へ強制送還[注釈 7]。収容所へと送られた。終戦後に日本へ帰国し、1952年(昭和27年)4月に県人会の佐々木仙一がペルーから郷土訪問した際は、愛媛県の長浜駅で出迎えた[17]。定丸はその後、日本で没する[14]。娘・エレナ[18]は森本夫人として戦後も首都リマに住み、ラ・ウニオン総合学校で教師を務めながら日本語教育に長く携わった[19]

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脚注

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