トップQs
タイムライン
チャット
視点
白戸栄之助
ウィキペディアから
Remove ads
白戸 栄之助(榮之助、しらと えいのすけ、1886年 - 1938年)は大正期に活躍した民間航空のパイオニア。奈良原三次門下で飛行機操縦術を学び独立。黎明期に多くの後進を育てた。
来歴
要約
視点
青森県北津軽郡金木村に住む士族・白戸喜三郎の五男として1886年(明治19年)に出生[4]。高等小学校卒業後に建具職の見習いを経て盛岡工兵隊に入営。1906年(明治39年)には選抜されて陸軍交通兵団の中野気球隊に入隊した。1909年に軍曹で退役し金木村に戻る[5]。
白戸家は1910年(明治43年)12月に五所川原へ移転。栄之助は上京し、軍隊時代の上官であった徳川好敏の紹介で奈良原三次に師事した[6]。
1911年(明治44年)2月には山田猪三郎が設計した飛行船・山田式二号機の初飛行テストに参加。新聞記者や数千の群衆が見守る中、折原国太郎らと共に乗船し浮遊した[7]。同年4月に所沢陸軍飛行場が開かれる。奈良原所有の2号機が運び込まれて、栄之助は助手としてその整備などに当たった。5月には大阪から上京してきた伊藤音次郎が奈良原門下に加わる[8]。
1912年(明治45年)4月、川崎競馬場で開催された日本国内初の有料民間飛行大会で、栄之助は奈良原式4号機「鳳号」を操縦して日本の民間操縦士第一号の名声を得る。続く5月11日には、青山練兵場(東京)で皇太子嘉仁親王・皇孫裕仁親王の台臨飛行を行って金一封を賜り、大成功を収めた[6]。
この頃、所沢の飛行場は軍の飛行機が増えて民間機は練習しづらくなっていた。そこで奈良原が目を付けたのが稲毛海岸(後の千葉市美浜区)であり、1912年(明治45年)5月下旬頃ここに移転。干潮時の干潟を利用し稲毛飛行場と称した。同年7月に元号が大正と改まり、その3ヶ月後の10月16日。栄之助は奈良原に同伴して稲毛海岸を訪れていた愛人・福島ヨネを奈良原式4号機「鳳号」に同乗させ飛行。これが日本で初めて女性が飛行機で空を飛んだ例とされる[9][6]。同年10月下旬から翌年11月にかけては奈良原一門で中国、九州、四国、朝鮮、北海道、東北等、全国の都市を回り、鳳号による興業飛行を行った。こうした成功の一方で経費が嵩んで大きな借金となっており、それに追われるように奈良原の飛行機への情熱も覚めていったとされる[10]。1913年(大正2年)末頃には実質的に航空界から引退の状態となり、門下の栄之助や伊藤らはそれぞれ活動するようになる。
栄之助は1914年(大正3年)9月に深川生まれで4つ年上、新橋烏森の売れっ子芸妓・はつと入籍[10]。翌1915年(大正4年)6月から2ヶ月をかけ、伊藤音次郎設計製作の「白戸式旭号」で新潟県柏崎、長岡、福島、青森、弘前、八戸を巡って公開飛行を行った[11]。
1916年(大正5年)1月、伊藤音次郎が自作の伊藤式恵美号で稲毛飛行場から帝都訪問飛行に成功。同年3月には伊藤の設計製作による日本初の民間水上機「白戸式巌号」が完成し、同月最初の離着水飛行に成功した[11][注釈 1]。
栄之助はこの巌号で沼津や兵庫県飾磨、高砂、大津、高松で飛行会を開催。ところが大津で水上滑走中にフロートを破損。飛べなかった事で主催者より賠償請求され、機体を助手だった後藤勇吉に400円で売却してその代金を賠償に充てた[13]。
1916年(大正5年)10月1日[14] に稲毛飛行場内に白戸共同飛行練習所[注釈 2]の看板を掲げる。同年12月[17]には稲毛海岸から離れ、千葉町寒川(後の中央区寒川町)に白戸飛行練習所[17][注釈 3] を開設。高橋信夫、島田武夫[6]ら飛行士の養成に努めた。
1918年(大正7年)8月中旬、召集されシベリアに出征。栄之助不在の間も妻の初は気丈に練習所を切り盛りし、門下の高橋信夫や田村敏一らが自発的に練習を続けた。津田沼の伊藤音次郎も気にかけてよく練習を見に来たとされる。栄之助は入隊後わずか数ヶ月で胸部疾患と診断され、同年12月に門司港へ送還。広島病院で療養し、翌年2月に東京へ帰還した。病は癒えたものの、やはり体力的には多少衰え、練習所運営の気力も落ちたとされる[18]。
1921年(大正10年)2月(航空法公布の2ヶ月前)には日本飛行士倶楽部の連名で中央飛行場設置に関する嘆願書を提出している[注釈 4][19]。同年5月、帝国飛行協会主催の第2回懸賞飛行競技大会において、門下生の高橋信夫が速度と曲技で一等となる[11]。
1923年(大正12年)には朝日新聞社主催の東西定期航空会に協力し、門下生を操縦士として派遣。しかし同年1月の第一回運航から事故が続き、2月22日の第7回運航では島田武雄が箱根明神ヶ岳の山腹に激突死[注釈 5]。また同年4月28日には白戸飛行場で高橋信夫が墜落。練習生の操縦で同乗中の事故であり、練習生は一命を取り留めたが高橋は即死した[20]。
栄之助は自らの片腕と頼んでいた彼らが相次いで殉職したことに大きな衝撃を受ける。白戸飛行機練習所の経営改善も見込めなかった為、1924年10月をもって航空界から引退した[21][注釈 6]。以後は木工業に転じ[22][23]、1938年(昭和13年)3月の栄之助没後も家族が後継。1942年に株式会社化したのち令和現在も千葉市中央区で存続している[2]。
Remove ads
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads
