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月刊平凡

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平凡』(へいぼん)は、かつてマガジンハウス(旧・凡人社→平凡出版)が発行していた芸能雑誌。

概要 平凡, ジャンル ...

旬の俳優タレント歌手スポーツ選手等、芸能関係の内容を幅広く扱っていた。

概要・歴史

1945年(昭和20年)11月、A5判の文芸娯楽雑誌として『平凡』は創刊された。『平凡』という名称は、戦前に講談社の娯楽雑誌に対抗するために平凡社が刊行し休刊中だった雑誌『平凡』の名前(登録権)を、発行者が譲り受けたことに由来する[1]1948年(昭和23年)より、B5判の大衆娯楽雑誌となり,「歌と映画の娯楽雑誌」というサブタイトルがつき、グラビア・連載小説を2本の柱とし,それぞれがラジオ映画といったメディアと結びつくような構成となった[1]。また読者もラジオや映画といったメディアと結びつける読者投稿ページが用意された[1]。価格は創刊号が定価1円であったが、その後の激しいインフレーションや判型変更などもあり、1950年(昭和25年)後半には定価70円となっている[2]

この間の路線変更が成功し、『平凡』は飛躍的に部数を伸ばし,発行部数140万部に至った[1]毎日新聞社「読書世論調査」の「いつも読む月刊雑誌」において『平凡』は,1953年(昭和28年)から1959年(昭和29年)にかけて2位であった[1]。この時期、同じような娯楽雑誌として『明星』も登場した。

1950年代後半からテレビが普及したり、『明星』や『近代映画』といったライバル誌、『週刊明星』や『週刊平凡』といった娯楽雑誌の姉妹誌として創刊された週刊誌によって発行部数は落ち着きをみせた。しかし、1970年代に入り、花の中三トリオ新御三家といったアイドルの人気が爆発し、それによってふたたび発行部数が増加してくる。1972年(昭和47年)8月号は発行部数105万部となり、1950年代以来の黄金期を迎えた。1973年(昭和48年)9月号からは判をAB判に改め、これが功を奏したのか1974年(昭和49年)2月号は創刊以来の最高部数である153万部を発行したが、以後は石油ショックによる用紙の制限や、ライバル誌の『明星』が表紙や巻頭グラビアの撮影に篠山紀信を起用したりしたこともあり、部数が落ちていった。[要出典]

1980年代に入り、雑誌が多様化する中、マガジンハウスは週刊と月刊の両『平凡』と『平凡パンチ』を一斉に休刊した。1987年(昭和62年)12月号をもって『平凡』は休刊した。

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脚注

参考文献

外部リンク

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