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有吉忠一
日本の内務官僚 ウィキペディアから
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有吉 忠一(ありよし ちゅういち、1873年〈明治6年〉6月2日 - 1947年〈昭和22年〉2月10日)は、日本の内務官僚。千葉県知事・宮崎県知事・神奈川県知事・兵庫県知事。朝鮮総督府政務総監。横浜市長。貴族院議員。横浜商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、日赤理事も務めた。豊岡県宮津(現・京都府宮津市)生まれ。クリスチャン。父は宮津藩藩士・京都留守居役・郡長の有吉三七。
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略歴
東京帝国大学法科大学卒業。内務省に入省。1896年 内務省。県治局属[1]。
- 1902年 警保局書記官、参事官。
- 1908年 第11代千葉県知事[2]
- 1910年6月14日-1911年3月13日 朝鮮総督府総務部長官。
- 1911年 第13代宮崎県知事
- 1915年 神奈川県知事
- 1919年 第15代兵庫県知事(兵庫県章を制定)

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人物
日本基督教団神戸教会の教会員であり、神奈川県知事時代には関東学院の開設に助力する。
有吉が朝鮮総督府、政務総監だった頃にイギリス人の植民地研究の権威だったアレン・アイルランドが朝鮮を訪れている。「有吉氏は日本で最も専門的知識があり評判の高い文官の一人で、私個人の見解では、仕事熱心で朝鮮の人々に対して思いやりのある人物である」[6]
栄典
- 位階
- 勲章等
親族
初代中華民国大使の有吉明と尼崎市長の有吉實は弟、長男は日本郵船社長の有吉義弥[13]。孫(義弥の次男)に三菱重工横浜造船所所長、同社常務の有吉煕がいる[14]。長女は政治家の山崎巌に[14]、三女は元建設事務次官の柴田達夫に[13]、四女は元日本電信電話公社総裁の米沢滋に[13]、五女は川上嘉市の次男で東宝アドセンター社長を務めた川上流二にそれぞれ嫁いでいる[15]。川上嘉市の妻すなわち川上流二の母は天文学者・寺尾寿の後妻の姪[16]。
参考文献
脚注
関連項目
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