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有地品之允

日本の海軍軍人、政治家、男爵 ウィキペディアから

有地品之允
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有地 品之允(ありち しなのじょう、天保14年3月15日1843年4月14日) - 大正8年(1919年1月17日)は、日本陸軍軍人海軍軍人華族政治家貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政

概要 有地 品之允, 生誕 ...

経歴

長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる[1][2][3]戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。

明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。明治14年(1881年)に「日進」艦長に就任。明治15年(1882年)には海軍大佐に昇進し、海防艦比叡」、「筑波」の艦長を歴任する。

「筑波」艦長であった明治17年(1884年)、遠洋航海に出発した。前年の航海では乗組員に多数の脚気患者が発生し、23名が死亡していた。そこで、海軍軍医高木兼寛の指導で洋食を導入した結果、脚気患者の発生が激減し、一人の死者も出ることがなかった。

同年12月に軍事部(後の軍令部)次長となり、参謀本部海軍部第1局長を経て、明治19年(1886年)に海軍少将・横須賀軍港司令官、翌年まで海軍機関学校校長を兼務。明治20年(1887年)に海軍兵学校校長となり、教育に柔道を導入している。明治22年(1889年)から同24年(1891年)まで海軍参謀部長、さらに常備艦隊司令長官を経て、明治25年(1892年12月12日に海軍中将・呉鎮守府司令長官[4]となり日清戦争を迎えた。

明治28年(1895年)5月に再び常備艦隊司令長官となり連合艦隊司令長官を兼務した。同年10月、日本領となった台湾において、抵抗した中国人がイギリス商船「テールス号」に逃げたため、配下の通報艦「八重山」がこれを追跡して臨検を行うという事件が起きた。これが公海上で行われたことからイギリスから抗議を受け、外務省は海軍に対して責任者の処罰を要求した。その結果、有地と八重山艦長の平山藤次郎大佐を予備役に編入することで解決が図られ、同年11月16日、待命となり[5]、同12月19日、予備役に編入された[6]

明治29年(1896年)に男爵に叙せられ、翌年1897年(明治30年)7月10日から[7]10年間(大正6年(1917年)4月30日まで[8])、貴族院議員を務めた。明治32年(1899年)、帝国海事協会初代理事長となり、有栖川宮威仁親王を総裁に奉戴し、帝国義勇艦隊(後の海防義会に繋がる)結成に尽くした。明治44年(1911年)3月15日に退役した[9]

大正6年(1917年)に枢密顧問官となった。大正8年(1919年)に肝臓がんのため四谷大番町の自宅で死去[10]青山墓地(1イ-6-2乙)に葬られる。墓碑には本名ではなく、一葦乗海居士と彫られている。

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栄典

位階
爵位
勲章等
外国勲章佩用允許
さらに見る 受章年, 国籍 ...
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著作など

  • 論説「海事ヲ論シテ教育家諸君ニ望ム」会員有地品之允、『大日本教育会雑誌』99、1890年8月15日
  • 「明治24年4月11日 有地海軍中将 海防意見書」(伊藤博文編『秘書類纂 10 兵政関係資料』196-201頁)
  • 論説「義勇艦隊建設について」男爵有地品之允、帝国海事協会機関誌『海事雑報』197、1905年2月10日

親族

脚注

参考文献

関連文献

外部リンク

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