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木下哲三郎

明治時代の司法官 ウィキペディアから

木下哲三郎
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木下 哲三郎(きのした てつさぶろう、1853年2月6日嘉永5年12月28日[1]) - 1907年明治40年)7月30日[2][3])は、明治時代の司法官大審院判事

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木下哲三郎

経歴

肥後熊本藩熊本城下新屋敷町(熊本区を経て現熊本市)出身[2]1874年(明治7年)法学試験生徒となり[1]、フランス法学を学ぶ[3]

累進して1886年(明治19年)司法省参事官となり、1890年(明治23年)大審院判事に進んだ[1]1891年(明治24年)ロシア皇太子を負傷させた大津事件の裁判にあたり、大審院判事として判決に関わった[3]

ほか、会計検査官懲戒裁判所裁判官や判検事登用試験委員[1]明治法律学校講師[4]を歴任した。1907年(明治40年)7月30日、脳溢血により死去した[2]

親族

脚注

参考文献

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