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木元規矩男

日本のラグビーユニオン選手 (1905-1992) ウィキペディアから

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木元 規矩男(きもと きくお、1905年11月1日 -1992年11月19日[1])は、日本実業家、ラグビー選手。

概要

鹿児島県出身。旧制川内中学卒業後、明治大学に入学。

明治大学ラグビー部では(当初、柔道部だったが転部)、当初フッカーだったが北島忠治に譲り、知葉友雄とセカンドロー(ロック)を組み活躍した(5シーズン26試合出場、3トライ)[2]

1924年(大正13年)、明治大学在学中に秋田県のラグビーを振興するメンバーとして尽力した[3]

1929年(昭和4年)、毎日新聞社東京本社に入社し、東京本社総務局長、西部本社営業局長を歴任。1958年(昭和33年)、RKB毎日放送代表取締役専務、副社長を歴任した。

1974年(昭和49年)2月から1986年3月まで、九州ラグビーフットボール協会会長を務めた[4]

1991年(平成3年)6月、九州ラグビーフットボール協会会長に再度就任し[5]1992年(平成4年)6月には米寿祝賀会が開かれた[4]

会長就任中の1992年11月に87歳で逝去。九州ラグビーフットボール協会への寄附により、2つの大会優勝杯が作られた。現在も「木元杯全九州高校新人大会」「木元杯九州セブンズ」として毎年開催されている。

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脚注

参考

関連項目

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