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本多忠民
江戸時代後期の三河国岡崎藩大名 ウィキペディアから
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本多 忠民(ほんだ ただもと)は、江戸時代後期の大名・老中。三河国岡崎藩主。忠勝系本多家宗家15代。官位は従四位下・侍従、上総介、中務大輔、美濃守。
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略歴
讃岐国高松藩主・松平頼儀の4男として誕生。岡崎藩主・本多忠考の婿養子となり、天保6年(1835年)5月1日、第11代将軍・徳川家斉に拝謁する。同年5月24日、忠考の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下中務大輔に叙任する。
弘化3年(1846年)に寺社奉行となる。安政4年(1857年)に京都所司代に転任し、朝廷対策、特に条約締結問題で朝幕間を奔走した。安政5年(1858年)、京都堀川にあった屋敷を焼失[1]。万延元年(1860年)より2年ほど老中を務める。元治元年(1864年)に再任の台命が下った際は一旦は固辞しているが、結局就任した。戊辰戦争の際は岡崎藩を恭順に統一した。
年表
系譜
- 父母
- 正室
- 本多忠考の娘
- 子女
- 久、貞操院 - 本多忠直正室
- 養子
脚注
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