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松平頼該
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松平 頼該(まつだいら よりかね)は、江戸時代後期の高松松平家御厄介(一門)。仏教改革者。通称は左近(さこん)。号は橘斎、橘舎、金岳、如水庵。別称に宮脇公。幼名は隆之丞、道之助。江戸小石川出身。
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略歴
高松藩8代藩主・松平頼儀の長男として誕生した。異母弟の頼胤が生まれると疎まれ、8歳のとき国元高松に移される。31歳で高松藩城下の宮脇村亀阜荘(現在の高松市立亀阜小学校)へ隠居する。その後、幕末の勤皇志士と交わり、日柳燕石、藤川三渓らを庇護した。また本門法華宗の高松八品講を組織する。
戊辰戦争で高松藩は、慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いに幕府側として加わったことから朝敵となり、官軍による征討の対象となった。藩内には、官軍を迎え討って戦火を交えることを辞さない意見もあったが、頼該と藤沢南岳(なんがく)が決死の覚悟で藩論をまとめ、1月18日に家老の小河又右衛門久成(おごう またうえもんひさしげ)と小夫兵庫正容(おぶ ひょうごまさしず)を切腹させて首を鎮撫使に差出し、藩主頼聰を城から出させて浄願寺にて謹慎させ、官軍に恭順を示し高松藩を戦火から救った。頼該は同年のうちに死去した。享年60。本行院殿慈門金岳源該日教大居士を諡され、高松本堯寺(ほんぎょうじ)に埋葬された。大正4年(1915年)11月、贈正四位。
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霊廟
松平頼該が祀られている本堯寺の霊廟は、木造平屋建、瓦葺で16平方メートル。1868年(明治元年)に建築され、1909年(明治42年)に改修。墓石がある奥殿と拝殿が相の間でつながれており、複合社殿形式をもつ武家廟所の遺例として希少であることから、2019年(令和元年)12月5日に登録有形文化財(建造物)に登録された。
系譜
参考文献
- 梶原猪之松『金岳公子傳』香川新報社、1915年(大正4年) 国立国会図書館デジタルコレクション
関連項目
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