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朽木玄綱

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朽木 玄綱(くつき とうつな)は、江戸時代中期の大名丹波国福知山藩の第5代藩主。福知山藩朽木家6代。

概要 凡例朽木玄綱, 時代 ...
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生涯

宝永6年(1709年)9月11日、美濃国岩村藩の第3代藩主・松平乗紀の五男として誕生した。享保12年(1727年)閏1月2日、母方のおじにあたる福知山藩の第4代藩主・朽木稙治の養子となる。同年閏1月15日、第8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。同年12月18日、従五位下・出羽守に叙任する。享保13年(1728年)11月23日、稙治の隠居により家督を継いだ。

藩政では享保17年(1732年)、享保の大飢饉が原因で、享保19年(1734年)に享保の強訴と呼ばれる騒動が起こり、藩内は混乱した。このため、米価高騰により自らの生活を最低にして出費を抑えている。また、明智光秀御霊法会を許可している(御霊祭りの開始)。さらに後継者問題でも、稙治が先に養子にしていた綱貞(稙治の甥、玄綱の従弟にあたる)の病が癒え、不和だった養父も死去したことで、綱貞を擁立する家臣一派と自らの子を擁立したい玄綱が対立した。もともと大給松平家から養子として入った玄綱には後ろ盾がなく、綱貞を養子にしたが、このことにより藩政では玄綱の発言権が弱くなった。

このように混乱続きの藩政で、玄綱の功績には文武の発展がある。享保19年(1734年)9月28日、奏者番に就任する。宝暦8年(1758年)4月7日、寺社奉行兼任を命じられた。宝暦9年(1759年)閏7月16日、奏者番兼寺社奉行を辞職した。明和6年(1769年)4月18日、日光祭礼奉行を命じられる。明和7年(1770年)8月30日に死去した。享年62。跡を綱貞が継いだ。

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系譜

脚注

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