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李上金
高宗の三男。母は楊宮人。杞王、沢王 ウィキペディアから
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李上金(り じょうきん)は、唐の高宗の三男である。母親は楊氏。中宗と睿宗の異母兄にあたる。
生涯
高宗が即位すると、上金は杞王に封ぜられた。永徽3年(652年)、益州大都督を遙領した。乾封元年(666年)、寿州刺史に任ぜられ、また濠州刺史を務めた。しかし武后に憎まれて官位と封号を奪われ、澧州に流された。
永隆2年(681年)、武后は上金と鄱陽王李素節を朝政に参加させるように上表した。しかしのちに上金を沔州刺史に、李素節を岳州刺史として、彼らの朝政への関与を再び妨げた。嗣聖元年(684年)、高宗が亡くなると喪に服した。同年(文明元年)に上金は畢王に封ぜられ、さらに沢王に改封され、蘇州刺史に任ぜられた。垂拱元年(685年)、陳州刺史に転じた。永昌元年(689年)、太子左衛率に任ぜられ、随州刺史となった。
載初元年(690年)、武承嗣が上金と李素節に謀反の企みありと誣告し、2人を洛陽に召還して御史台に送った。李素節が南龍門駅で殺害されると、上金は恐れて自殺した。上金の死後に、7人の子は顕州に流され、そのうち李義珍・李義玫・李義璋・李義環・李義瑾・李義璲は現地で死に、ただ李義珣のみが生き残った。中宗が復位した後、上金の官爵は復され、李義珣は沢王の位を継いだ。
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