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武承嗣
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武 承嗣(ぶ しょうし、649年 - 698年)は、唐の外戚。武周の皇族。魏王。武則天の甥にあたる。字は奉先[1]。本貫は并州文水県。
経歴
武元爽の子として生まれた。武士彠の孫にあたる。父に従って嶺南に配流された。咸亨4年(673年)、嶺南から召還され、尚輦奉御に任じられ、祖父の爵位の周国公を嗣いだ。まもなく秘書監・検校太子左衛率に転じた。文明元年(684年)、承嗣は礼部尚書となった。光宅元年(同年)、司礼寺卿・同鳳閣鸞台三品(宰相)に任じられた。垂拱元年(685年)、宰相のまま春官尚書に転じた[2][3]。永昌元年(689年)、天官尚書に転じた[1]。載初元年(690年)、蘇良嗣に代わって文昌左相(尚書左僕射)・同鳳閣鸞台三品となり、知鳳閣事を兼ねた[4][3]。
承嗣の性格は残忍で、あるとき左司郎中の喬知之の婢の窈娘を略取した。喬知之は承嗣を批判する詩を作り、窈娘は自殺した。承嗣は怒って、喬知之を酷吏に告発して殺し、喬知之の家を破壊した。承嗣は武則天に革命をほのめかし、唐の皇室諸王や公卿のうちで武氏につかない者を殺害するよう勧めた。承嗣の従弟の武三思もまたその計画に賛同し、無辜の者が多く殺された。天授元年(同年)9月、東都洛陽に武氏の七廟が置かれると、承嗣は魏王に封じられた。まもなく監修国史をつとめた。承嗣は皇太子になろうと、鳳閣舎人の張嘉福を頤使して上表させたが、武則天は許さなかった。如意元年(692年)、承嗣は特進となった。聖暦元年(698年)7月、太子太保に任じられ、宰相から退任した[4][5]。8月10日、神都洛陽の行修里の私邸で死去した。享年は50[1]。太尉・并州牧の位を追贈された。諡は宣といった[4][6]。聖暦3年(700年)、順陵に陪葬された[1]。
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子女
脚注
伝記資料
参考文献
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