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李勇哲
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李 勇哲(リ・ヨンチョル、朝鮮語: 리용철、1929年3月24日 - 2010年4月16日)は、朝鮮民主主義人民共和国の政治家。朝鮮労働党組織指導部第1副部長、朝鮮労働党中央委員会委員、朝鮮労働党中央軍事委員会委員などを歴任。金正日総書記から軍事部門担当の組織指導部第1副部長に抜擢され、軍と党の実力者となった[1]。金正日の後継者候補に次男の金正哲を推した[2]。
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経歴
1929年に生まれた。出生地は不明。1986年に朝鮮労働党調査部部長に就任し、1993年6月に朝鮮労働党組織指導部副部長となった。同年12月に朝鮮労働党中央委員会委員に選出され、1994年に金正日が最高指導者に就任すると、組織指導部第1副部長に抜擢され、軍の組織・人事業務を担当した[3]。1996年には朝鮮労働党中央軍事委員会委員に選出され、1998年には最高人民会議第10期代議員に選出された。
2002年頃、李済剛第1副部長とともに「朝鮮人民軍の母運動」を仕掛けた[4]。これにより、李勇哲・李済剛と金正日の側近で義弟の張成沢とは互いに監視しあう仲になったといわれる[4][注釈 1]。
2010年4月16日に心臓発作の為、死去[3]。金正日総書記より花束が贈られた[3]。同年6月には李済剛第1副部長が交通事故で、翌2011年1月には朴正順第1副部長が肺がんで死去し、第1副部長が3人死去した異例の事態となった[5]。
李勇哲と李済剛の相次ぐ死の背景には、張成沢の暗躍があったとも考えられている[4]。張成沢は、金正日より金正恩への権力継承が円滑に進むため、先軍政治によって肥大化した朝鮮人民軍、独裁政治を支えてきた秘密警察である国家安全保衛部(現、国家保衛省)、それに、党や軍事の人事を一手に握り、最強の党機関として勢威を振るう労働党組織指導部の権力を削ぐよう、準備するよう密命を受けていた[4]。張成沢は、この命令を忠実に守った[4]。組織指導部の権力縮小は、李勇哲と李済剛の死によって実現したが、これが張成沢との権力闘争に結びつけない者は平壌にはいなかったという[4][注釈 2]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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