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李垣
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李 垣(り えん)は、中華民国・満洲国の政治家・外交官。北京政府の要人で、後に冀東防共自治政府にも参加した。字は謙六。
事績
清末の活動
北京同文館を卒業。最初は東三省に赴任し、吉林交渉局提調、ハルビン鉄路交渉局提調を歴任した。その後にロシアへ留学し、サンクトペテルブルク大学で学ぶ。卒業後は駐ロシア公使館で通訳官を担当した[1]。
北京政府での活動
中華民国成立後は、北京政府の国務院法制局編訳員に任命される。1913年(民国2年)に法制局検事となる。翌年に署理法制局参事に任ぜられた[1]。
その後、李垣はモンゴル(外蒙古)で官職を歴任する。1918年(民国7年)3月に恰克図佐理員に任じられた。1920年(民国9年)7月には、徐樹錚の辞任を受けて護理西北籌備使を兼任した。同年9月、烏努烏梁海(タンヌ・ウリャンカイ)参賛へ異動する。12月、さらに科布多(ホブド)参賛に転じた[1]。
翌年3月、庫烏科唐鎮撫使陳毅[2]がモンゴル軍とロシア白軍に敗北し、北京政府から罷免されると、李垣が代理庫烏科唐鎮撫使を兼任した。しかし1922年(民国11年)、ソビエト連邦の支援を受けたモンゴルのボグド・ハーン政権により、蒙古での北京政府の役職は一掃された。これにより、李垣は蒙古での地位を失っている。なお蒙古にあった間、外蒙冊封副使、蒙疆経略使署左参賛なども歴任している[1]。
1925年(民国14年)、善後会議会員となる。7月には、臨時参政院参政となった。翌年9月には、京兆尹兼北京市長に任ぜられた。1927年(民国16年)、辞職している[1]。
満洲国・親日政府での活動
1933年2月、ソビエト連邦のチタに満州国領事館が開設されることになり、李垣が領事に任命された[3]。1935年(民国24年)11月、殷汝耕が冀東防共自治委員会(翌月、冀東防共自治政府に改組)を成立させると、李垣もこれに参加して貨物査検所長に任命されている[4]。以後、李垣の行方は不詳である[5]。
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注
参考文献
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