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李宣威
清末民初の官僚 ウィキペディアから
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李 宣威(り せんい、1883年 – 没年不明)は、清末民初の官僚。字は律閑[2]、津閣[4]。王克敏の側近的存在で、北京政府と中華民国臨時政府で王を補佐した。
事績
清末に日本へ留学し、1907年(光緒33年・明治40年)7月に東京高等工業学校電気科選科を修了・卒業した[5]。帰国後は郵伝部員外郎をつとめている[2]。
中華民国成立後の李宣威は、北京政府の財政部で秘書などを歴任したと見られる。1923年(民国12年)4月21日、全国財政討論委員会委員に任命され、11月23日には塩務署秘書をつとめた[6]。なお、財政総長から失脚した王克敏が馮玉祥に逮捕されそうになった際に、身一つで逃げる王を李が救援し、日本大使館の庇護を受けられるようにしたとされる[4]。この逸話については時期などに不審な点があるが[注 2]、いずれにしても、李が王の信任を受ける存在であったことをうかがわせる。
王克敏らが中華民国臨時政府を創設すると、李宣威もこれに参与する。1938年(民国27年)1月1日、行政部(総長:王克敏)内務局局長兼交通局局長に任命された[7]。2月11日、中国聯合準備銀行(聯銀)が創設されると、李は同銀行董事を兼務した[8]。3月12日、建設総署(署長:殷同)の新設に伴い、李は同総署副署長も兼任した[9]。
9月18日に行政部が廃止されると交通局は行政委員会(委員長:王克敏)に直属されたが、李宣威がそのまま交通局長に重任した[10]。9月22日、中華民国維新政府との合流を協議する中華民国政府聯合委員会が創設されると、李は同委員会秘書長も兼任している[11]。9月28日、建設総署副署長の兼務を解除された[12]。臨時政府最末期の1940年(民国29年)2月、華北電業株式会社(総裁:朱深)理事兼総務部副部長に就任した[3]。
1940年(民国29年)3月、臨時政府は汪兆銘政権に合流し、華北政務委員会に改組された。しかし、李宣威の任用情報は『華北政務委員会公報』等に見当たらず、この時点までに政府官職からは退いたと考えられる[注 3]。満蒙資料協会編『中国紳士録 第二版』(1942年5月20日発行)において、上述の華北電業株式会社理事兼総務部副部長に在任との記録がある[3]。
1942年以降における李宣威の動向は不詳となっている。
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脚注
参考文献
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