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李文範

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李文範
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李 文範(り ぶんはん)は、中華民国政治家中国同盟会中国国民党国民政府)に属し、胡漢民の側近でもあった。君佩

概要 李文範, プロフィール ...

事績

1900年(光緒26年)、自費で日本に留学する。1905年(光緒31年)、東京中国同盟会に加入した。1906年光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を優等生として卒業[1][2]。なお、同期には同じく優等生として卒業した汪兆銘(汪精衛)の他に胡漢民古応芬張一鵬孫潤宇らがいる。帰国後、公立広東法政学堂で教員兼翻訳(通訳)となった。翌年、広東省同盟会会長となる。清末の同盟会の蜂起にも参加した。

1912年民国元年)、広東省海軍軍務処秘書長兼都督府参議となる。翌年から袁世凱打倒の活動に従事し、二次革命(第二革命)や護国戦争第三革命)にも参加した。1920年(民国9年)、フランスに留学している。

1924年(民国13年)9月、広東省政務庁庁長(当時の省長は胡漢民)に任ぜられた。翌年7月、広州国民政府秘書長兼中央委員会政治委員会秘書長となっている。同年9月、胡に随従してソビエト連邦へ視察に向かった。1926年(民国15年)に帰国したが、同年11月、今度はアメリカ合衆国へ党務視察に向かっている。

1927年3月に帰国すると、中国国民党中央執行委員会宣伝委員会主任委員に任命された。翌年6月、広東省政府委員兼民政庁庁長となっている。1928年(民国17年)10月、国民政府立法院立法委員兼秘書長に任ぜられた。翌年3月、国民党第3期中央執行委員に選出され、以後第6期まで継続して同職に選出されている。また第5期からは常務委員にも選出された。1931年(民国20年)12月、内政部長に任命されたが、翌年2月、退いている。1935年(民国24年)、国民政府委員に任ぜられた。

日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、国防最高委員会委員に任命されている。1940年(民国29年)11月から党政工作考核委員会主任委員兼党務処主任の他、党務の様々な要職を兼任した。1946年(民国35年)、制憲国民大会代表に当選する。翌年6月、司法院副院長に任ぜられた。1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に当選している。

国共内戦で国民党が敗北すると、李文範は台湾に逃れた。以後、国民大会代表、党中央評議委員、党中央規律委員会主任委員、総統府資政中国語版などを歴任している。

1953年(民国42年)6月23日、台北市にて病没。享年70(満68歳)。

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参考文献

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