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李翰林

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李翰林
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李 翰林(イ・ハルリム、이한림)は大韓民国軍人外交官政治家本貫平昌李氏[1]創氏改名による日本名香住祥介(かずみ しょうすけ)[2][3]朝鮮戦争開戦時の陸軍士官学校副校長。太極武功勲章授与者。

概要 李翰林 이한림, 生誕 ...
概要 李翰林, 各種表記 ...
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人物

1921年2月、咸鏡南道安辺に生まれる。新京軍官学校第2期予科卒業、陸軍士官学校に留学して第57期相当。第4高射砲隊に配属され、第2営副官。1944年8月、第1営第3連附[3]

終戦後、新京保安司令部(長:丁一権)生徒隊教官[4]

1946年2月21日付で軍事英語学校を卒業して中尉に任官(軍番10056番)[5]。第3連隊の創設に参加。のちに警備士官学校教務処長。1946年11月末、第6連隊に派遣され、大隊副官兼作戦主任[6]。1947年2月第6連隊大隊長[7]

1947年5月12日、第4連隊長[8]。1948年7月、アメリカ陸軍歩兵学校に留学[9]。1949年3月に帰国して陸軍士官学校副校長。

1950年7月1日、第2師団長[10]。同年7月15日、慶尚北道咸昌で第2軍団が編成されると副軍団長[11]。同年8月、第2軍団参謀長。

1950年12月、国防部国民防衛局長。

1951年1月13日、陸軍本部情報局長[12]。同年4月、陸軍本部作戦局長。同年7月、陸軍歩兵学校校長。

1952年1月9日、国防部第2局(政訓局)長[13][14]。同年5月、休戦会談韓国代表[15]

1953年6月15日、第9師団長[16]、任少将。

1954年、第6軍団長、任中将。在任中の副大統領選挙で、当時与党候補の李起鵬を支持せず中立を保った[17]。このため報復人事措置として、現役の軍団長から国防大学院に入学することになった[17]

1957年、国防大学院卒業、陸軍士官学校校長。

1960年10月、第1軍司令官[18]

1961年5月、第1軍創設式典に参加した翌日に5・16軍事クーデターが発生するや、軍の中立的観点から不支持を明確に表明[19]。 38度線を警戒しつつ隷下部隊に鎮圧を命じたが、政府機関を掌握されたため行動不能となり、在韓米第8軍を味方につけようとしたものの、各部隊が次々と革命委員会への帰順を表明したことから、結局李も朴正煕に電話で支持を表明した。しかし18日午前6時30分、参謀長の黄憲親[20]准将、軍需参謀パク・ウォングン准将と司令官宿舎で朝食中に曹昌大・朴容琪・厳秉吉中領ら第1軍幕僚に指揮された心理戦2個小隊70名に強襲され、反革命容疑で徳寿宮に監禁される[19]

その後不起訴となり、同年8月24日、予備役編入[21]

1962年、カリフォルニア州立大学修了。

1963年6月、水産開発公社社長。

1968年3月、鎮海化学社長。

1969年2月から建設部長官、国際観光公社総裁、駐トルコ大使を歴任。

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勲章

出典

参考文献

外部リンク

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