トップQs
タイムライン
チャット
視点

東園栄子 (子爵夫人)

久邇宮朝彦親王第二王女。子爵東園基愛の後室。 ウィキペディアから

Remove ads

東園 栄子(ひがしぞの さかこ[1]1868年2月18日慶応4年 / 明治元年1月25日〉 - 1949年昭和24年〉1月9日)は、日本の子爵夫人。久邇宮朝彦親王第2王女、子爵東園基愛の後室。降嫁前の全名は栄子女王(さかこじょおう)。

概要 東園 栄子 (栄子女王), 続柄 ...

生涯

皇族時代

慶応4年1月25日1868年2月18日)、久邇宮朝彦親王の第2王女として生まれる[1]

明治16年(1883年4月18日昭憲皇太后に召され、共に御苑で観桜した[2]

明治18年(1885年2月7日山階宮晃親王の古稀の祝賀会に参加した[3]

明治20年(1887年4月29日井上馨邸行啓後の英照皇太后の御覧・晩餐を共にした[4]

明治22年(1889年1月14日絢子女王素子女王篶子女王らと共に昭憲皇太后に対面した[5]

明治23年(1890年10月3日博経親王妃郁子と共に、品川駅より汽車に乗り、神奈川県へ旅行に赴き[6]10月12日に帰京した[7]

明治24年(1891年10月25日守正王・絢子女王・篶子女王と共に、父朝彦親王の病気訪問のため伊勢に赴いたが[8]、朝彦親王は同日中に薨御した[9]10月28日、京都に到着した[10]10月29日、遺体が京都に到着し[11]、対面した。

明治25年(1892年5月21日、絢子女王・素子女王・篶子女王と阪奈地方へ旅行へ赴き[12]5月23日に帰京した[13][14]5月29日麻布区に在った旧多度津藩邸に移転した[15]6月1日には絢子・素子・篶子と共に昭憲皇太后に対面し、白縮緬一疋を下賜された[16]

明治26年(1893年8月5日、素子女王と共に日光へ旅行に赴いた[17]

明治28年(1895年)5月、彰仁親王妃頼子能久親王妃富子依仁親王妃八重子・博経親王妃郁子と共に東京陸軍予備病院の患者を慰問した[18]。11月、北白川宮能久親王が薨御したため叔父の続柄として服喪した[19]

明治29年(1896年12月9日、昭憲皇太后が伏見宮邸に行啓し、対面した[20]

明治31年(1898年)2月、山階宮晃親王が薨御したため伯父の続柄として服喪した[21]7月3日、鎌倉に旅行し[22]7月5日に帰京した[23]

明治32年(1899年6月11日、再び鎌倉に旅行し[24]6月14日に帰京した[25][26]

子爵夫人

明治32年(1899年)9月5日明治天皇より結婚の勅許を受けた[27][28]9月21日、暇乞のため参内し昭憲皇太后と対面し、紅白縮緬各一疋・ダイヤモンド入りブローチを下賜された[29]9月26日東園基愛に降嫁した[30][原文 1]。これに伴い同日、明治天皇・昭憲皇太后より祝賀として紅白縮緬各一疋を下賜された[29][30][注釈 1]

2人の間に子を成さぬまま、基愛は大正9年(1920年11月10日に薨去した[1]

昭和24年(1949年1月9日19時、狭心症のため熱海市水口の自宅において薨去した[1][31]

Remove ads

栄典

記念章

脚注

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads