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井上馨

日本の政治家 (1836-1915) ウィキペディアから

井上馨
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井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日天保6年11月28日〉- 1915年大正4年〉9月1日)は、日本政治家[3]位階勲等爵位従一位大勲位侯爵

概要 生年月日, 出生地 ...

長州藩の藩主側近から尊王攘夷運動に参加し、イギリスへの密航をきっかけに開国論者となり、長州藩における倒幕運動の中心人物として活動した[3]太政官制時代に外務卿参議などを歴任し、長州閥の重要人物となった。黒田内閣農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、元老の一人として政財界に多大な影響を与えた[3]

幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた[4])に改名した。は惟精(これきよ)。雅号は世外(せがい)[5]。志士時代の変名は春山花輔、高田春太郎など[6]

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生涯

要約
視点

生い立ち

長州藩・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現・山口市湯田温泉)に生まれる。 家系である安芸井上氏河内源氏の流れをくむ安芸国人の出身で[7]毛利氏の家臣内で権勢をふるったものの井上党誅殺事件毛利元就によって粛清を受けた。しかし一族の井上就在は早くから元就に忠実に仕えていたため存続し、玄孫の井上就勝は祖父の禄100石を相続して分家した[8]。馨の井上家はこの系統である。

嘉永4年(1851年)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。なお、吉田松陰が主催する松下村塾には入塾していない。安政2年(1855年)に長州藩士志道家(大組・250石)の養嗣子となった。

同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向、江戸で伊藤俊輔(伊藤博文)と出会い、岩屋玄蔵江川英龍斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。万延元年(1860年)、敬親の小姓に加えられた[5]。この際に敬親より「聞多」の名を与えられている。同年に敬親に従い帰国、西洋軍事訓練にも加わり、文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを務め江戸へ再下向した[9][10][11][12]

志士時代

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長州五傑(長州ファイブ)。上段左から時計回りに遠藤謹助井上勝伊藤博文山尾庸三、井上馨

江戸遊学中の文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜ジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴し、過激な攘夷思想を抱くようになる。同年11月には高杉晋作とともに、金沢を訪れた外国公使を殺害する計画を立てたが、山内容堂から定広に告げられたことで失敗し、謹慎を命じられた[13]。謹慎中の井上は高杉・久坂玄瑞山尾庸三らとともに「此度我々共夷狄を誅戮し、其の首級を提げ罷帰」という血盟書に署名し、「御楯組」を結成した[14]。12月12日、御楯組と伊藤らはイギリス公使館焼討ちを実行した[15]

その後は一旦京都に潜伏したが、翌文久3年(1863年)正月20日に定広の小姓役として復帰した[16]。この頃、久坂と山縣半蔵(宍戸璣)から佐久間象山の海軍論を伝え聞いて魅了され、「外国に出で海軍のことを研究して日本に海軍を興さう」と洋行の意思を持つようになる[17]。山尾・野村弥吉(井上勝)は井上とともに洋行することを望んでおり、これを受けた井上は洋行を定広に懇願した[18]。3人の洋行は藩に許可され、600両の留学費用を受けた上に、井上は敬親から「量時度力」、定広から「思辮」の書を賜った[19]。また5月には志道家と離縁して、井上家に戻っている[6]

留学のために江戸に向かった井上らだが、イギリス領事エイベル・ガウワーから留学費用は一人当たり1000両におよぶと言う話を聞いた。さらに伊藤・遠藤謹助らも洋行を希望して参加したため、留学費用には5000両が必要であった。井上は麻布藩邸の村田蔵六(大村益次郎)のもとを訪れ、藩の鉄砲買い入れ資金一万両を担保に5000両を融通してもらえないかと交渉した。村田の斡旋で大黒屋六兵衛から5000両を借り受けた5人は、5月11日に断髪・洋装の姿で蒸気船に乗り、出国した[20]。8月15日、上海を訪れた井上は、その地で大量の外国軍艦を目にして攘夷の無謀さを知り、開国論者に転じた[21]

9月23日に井上・伊藤はロンドンに到着し、上海から別便で来ていた山尾らと合流した[22]。彼らは「長州ファイブ」、日本では「長州五傑」とも呼ばれている。ロンドンではユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに学ぶ。翌元治元年(1864年)の春、長州藩が外国商船に対して砲撃したという事件を知った井上は、「一旦帰朝し、君公または当路の士に面して欧州の形勢事情を詳説し、鎖国の陋見を破る開国の方針に一変せしめねばならぬ」と決意し、伊藤とともに帰国することとなった[23]。この際、山尾らも帰国の意思を示したが、井上は「五人一同帰国して一時に死地に入るのは策の得たものでない」と説得し、三人はロンドンで留学を継続した[23]

3月に中旬に井上らは出国し、6月10日に横浜に到着した[24]。しかしこの直前にはフランスとアメリカの軍艦による下関攻撃が行われていた。井上と伊藤はイギリス公使ラザフォード・オールコックに面会し、藩論を転換させるから出兵を延期してほしいと懇願した[24]。オールコックは延期を了承し、井上らはイギリス・フランス・アメリカ・オランダ四カ国公使の書簡を持って長州に戻ったが、藩内部では「外夷」のスパイ、「売国奴」と罵られる有り様であった[25]。藩兵の主力を京都から呼び戻す必要があると判断した藩の主戦派は、交渉の引き伸ばし役を井上と伊藤に命じた[26]。しかし京都の藩兵は禁門の変によって敗れ、長州は幕府と四カ国艦隊を敵にわす自体に陥った。8月3日、井上が砲撃の延期を交渉するために艦隊に向かおうとしたところ、四カ国艦隊は一斉に砲撃を開始、下関戦争が始まった[26]。井上は一旦戦争となったからには死を賭けて戦うべきであると主張し、敗北によって和議に傾いた藩内でも強硬に主戦論を主張した[27]。世子定広は「以権道講和(講和はあくまで策略である)」という書を渡して説得しようとしたが、井上は詐謀を用いて和議しても外国には見抜かれ、より厳しい懲罰を受けると反発した。これを受けた定広は「以信義講和(信義をもって講和する)」という書を渡し、藩論は講和に定まった[27]

第一次長州征伐では武備恭順を主張したために9月25日に俗論党椋梨藤太を参照)に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負った。ただ、芸妓中西君尾からもらった鏡を懐にしまっていたため、急所を守ることができ、美濃の浪人で適塾出身の医師の所郁太郎の約50針におよぶ縫合手術を受けて一命を取り留めた[28]。このとき、あまりの重傷に聞多は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせた[29]。このエピソードはのちに第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。

また、寝込んでいたときに伊藤が見舞いに訪れた。井上は危険だから早くこの地を離れろと忠告したが[30]、伊藤によればすぐに承諾することはできなかったという[31][32][33][34]。体調は回復したが、俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかった。しかし、高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起(功山寺挙兵)、再び藩論を開国攘夷に統一した。

慶応元年(1865年)4月、長州藩の支藩長府藩の領土だった下関を外国に向けて開港しようと高杉・伊藤と結託、領地交換で長州藩領にしようと図ったことが攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れ、若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏、別府温泉の古湯楠温泉でしばらく療養した。5月に伊藤からの手紙で長州藩へ戻り、7月から8月にかけて薩摩藩の小松帯刀の斡旋により長崎で外国商人トーマス・ブレーク・グラバーから銃器を購入、そのために薩摩入りを果たした。その返礼として9月8日、毛利敬親父子は島津久光父子に宛てて親書を送り、両藩は実質的に和解した。

翌慶応2年(1866年)1月に坂本龍馬の仲介で京都の小松帯刀邸において薩長同盟が成立、同年6月から8月までの第二次長州征伐で芸州口で戦い江戸幕府軍に勝利した。9月2日広島において広沢真臣御堀耕助長松幹とともに幕府の代表勝海舟と会談し、休戦で合意した[35]。その後振武隊総管や下関応接場御用掛などの任にあたっている[36]

新政府における地方勤務

慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが発生した日に新政府の参与に任じられ、幕府軍に対する抗戦を主張した[37]。その後長州藩に対する伝達を行った後に京に戻り[38]、1月28日には外国事務掛[39]、1月29日には九州鎮撫総督澤宣嘉の参謀となり、長崎へ赴任した[40]。当時長崎では幕府時代に摘発された潜伏キリシタンの処分が問題となっていた。5月、木戸・沢・井上、大村藩大村純熈らは協議し、信徒らを分散して流刑にすることを決した(浦上四番崩れ[41]。また同時期に福江藩藩主五島氏の家中紛争の調停や、潜伏キリシタン摘発事件の五島崩れに抗議した外国公使への対応にもあたっている[42][注釈 1]。翌明治元年(1868年)6月に長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事した。長崎における井上の活動は現地の反感を集めるもので、翌年7月に一時長崎を訪れた際には「井上姦吏」を「見當り次第打殺申候事」という落書が出回るほどであった[44]。またこの時期には佐賀藩から派遣されていた大隈重信を「天下の名士」として木戸に推薦している[45]

木戸派における活動

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造幣局時代の井上馨(右端)。その左に大隈重信(横浜外務事務局)、伊藤博文(神戸外務事務局)。後列右より中井弘久世治作(ともに造幣局)

明治2年(1869年6月21日には通商司に任ぜられで大坂へ赴任、7月に造幣局知事へ異動となって東京に戻った。造幣局は8月18日に造幣寮となって大蔵省の所管となったが、大蔵省は木戸派の牙城であった[46]。7月の改革で大蔵省と民部省は分割されたが、井上はこれに反対していた[47]。10月12日には民部大丞兼大蔵大丞に任じられている[48]。この頃大隈は木戸に重用されて次官である大蔵大輔となり、参議就任も問題になるなど、井上の上席を占めていた。大隈邸には井上や伊藤ら若手官僚が集まって日夜改革を議論しており、「築地梁山泊」と呼ばれていた[49]

12月、井上と木戸が長州の三田尻港に到着した日、長州藩の奇兵隊などから2000人が山口から脱走して三田尻に訪れる事件が発生した(脱隊騒動[50]。井上は山口の人民を武装させて脱走隊士を威圧しようと考えたが、穏便な解決を目指す木戸によって退けられた[51]。しかし脱走隊士らが知藩事邸を囲むなど暴発したため、木戸も鎮圧に踏み切った。井上は上京し、長州藩徴士一大隊の派遣を要請し、3月になって事態は沈静化した[48]

この間、明治2年11月に死去した兄の家督を継承、甥で兄の次男勝之助を養子に引き取り、明治3年8月に大隈重信の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚している[52][53][54][55]。11月12日は大蔵少輔に任じられている[56]。この際、大久保利通は井上の少輔就任に反対する書簡を岩倉具視に送っている[57]

明治4年(1871年)6月になると、それぞれ改革を目指していた大久保と木戸の妥協が成立し、政体改革が行われることとなった。大久保は不本意ながら[注釈 2]大蔵省の長官である卿に就任し、いわば敵地に乗り込む形となった[46]。また7月には廃藩置県の秘密会議が行われ、井上もこれに参加している[59]。さらに同月下旬には井上の主導により大蔵省は民部省と合併することとなり、井上は一時的に民部大輔となった後に大蔵大輔に就任した。8月にはは各省の長官が構成員となる行政府の右院、立法府の左院、大臣や参議が参加する、最高機関の正院で構成される太政官三院制が成立した[60]。しかしこの改革では各省庁の権限が強化され、大蔵省は太政官の統制も及ばない強力な組織となった[46]。民蔵合併後、井上は大久保に非協力的となり、後に大久保派の官僚を排除している[46]。さらに左院は改革的な「木戸派の大蔵省」に批判的であり、大久保の立場は微妙なものとなっていった[46]。しかし強い反発を受けながらも大蔵省が政策を実行できたのは、大久保の調整力と大蔵省出身者である大隈重信の理解によるところが大きかった[61]。9月には井上と大久保は農地売買の解禁と地租改正を求めた「地租改正に関する意見書」を提出している[62]

その頃、岩倉具視を団長とする欧米諸国への使節派遣が検討されていた(岩倉使節団)。9月12日、井上は大久保に洋行をすすめた[63]笠原英彦は、井上と大久保が大蔵省問題の解決には相互の派閥対立の解消が必要であったと考えていたためと見ている[63]。大久保は「良法」[63]であるこの計画に乗り気になった[64]。井上は使節団の洋行中には大規模な改革を行わないことを主張したが、大隈ら他の閣員は改革への意思を旺盛に示していた[61]。井上は留守政府と使節団の約定が成立しないうちは出仕しないと宣言し、辞職をもほのめかした[61]。こうして12か条の約定書が成立したが、その解釈は閣員ごとに異なっており、ほとんど意味をなさないものとなった[65]

10月、井上は突然大久保の洋行に反対の意思を示し、木戸の慰留も聞かずに岩倉に対して辞表を提出した[66]。岩倉・木戸・大久保の必死の説得により、ようやく井上は辞表を撤回している[66]

留守政府と失脚

留守政府では薩摩派の大物である西郷隆盛が大蔵省御用掛に就任していた。しかし西郷は井上に対して好感をもっておらず、佐々木高行は「西郷が洋行送別の酒席で井上に盃をまわし、『三井番頭さん差上る』と言った」という話を聞き、板垣退助との話と符合しているとして、留守政府の前途に懸念を示している[67]

佐々木の危惧通り、使節団出発後の留守政府は混乱することとなった。三院体制は木戸の存在を前提とした設計であり、木戸・大久保・岩倉といった調整役が不在の状態で政局の安定は見込めなかった[66]。各省はそれぞれの改革に猛進することとなり、それは井上の大蔵省も例外ではなかった[68]

当時の政府は慢性的な財政難であり、更に廃藩置県の実行で武士に対する家禄支払いは政府の責任となった[69]。井上はこの状況を打開するため、殖産興業と武士の家禄処分を同時に行い、その財源として外債調達を考案した[70]。まず家禄処分については華族の家禄を4分の3、士族の家禄を3分の1削減し、士族と卒族に6年分の禄券を発行する案を立て、明治5年(1872年)2月に合意を取り付けた[71]。井上は明治4年末から外債を募集する計画を立て、翌年には吉田清成アメリカに派遣した[69]。吉田が外債募集が困難であるという報告を行うと、井上は即座に中止を命じたが[69]、募債規模を減額してロンドンで起債することで調達を続行することにした[72]。この七分利付外債募集は明治6年初頭に成立し、222万ポンド(1083万円)の調達に成功している[73]

しかしこの調達金額は、井上が当初構想していた額の三分の一程度であった。このため井上は各省庁の予算を抑制する方針に転換した[70]。しかし文部省は学制、司法省が司法改革などで予算を必要としており、井上の緊縮策は各省庁や参議、特に司法卿江藤新平文部卿大木喬任たちの怒りを買った[70]。また明治6年(1873年)2月には、大蔵省によって不当に尾去沢鉱山を接収されたとして、村井茂兵衛による訴えが行われた[74]。この尾去沢鉱山はすでに井上が親しかった岡田平蔵に対して払い下げられていた[75]。江藤はこの事件の調査を命じているが、4月以降にはほとんど関与しなくなっている[76]

井上は正院を強化し、大蔵省の味方につけて対抗しようとするが、正院に参議として補充されたのは江藤・大木・後藤象二郎といった反大蔵省派であり、完全に裏目に出ることとなった[77]。5月に渋沢とともにに辞職に追い込まれた。そのときに渋沢栄一と連名で建議書を提出し、政府の財政感覚の乏しさを指摘した。その建議書は新聞雑誌に掲載され、国家予算の明朗化の第一歩となった[78]

その後、9月に使節団が帰国、征韓論をめぐる政争や10月の明治六年政変で西郷、江藤、板垣らが下野、大蔵省の権限分譲案として内務省が創設される。また、翌明治7年(1874年)に江藤が佐賀の乱を起こして敗死するなど変遷があったが、すでに下野していた井上にはそれらに関わりがなかった[79][80][81][82]。しかし政変における伊藤の役割を高く評価しており、「畢竟老台岩翁御説諭之功始て顕れ」と書簡で伝えている[83]

尾去沢銅山事件と政界復帰

大蔵大輔辞職後の井上は、三井組を背景に先収会社三井物産の前身)を設立するなどして実業活動を行った。8月29日には「実地見分」として岡田平蔵に誘われ、尾去沢鉱山を訪れている[84]。明治7年(1874年)1月には三井組・岡田平蔵とともに岡田組を結成し、米の取引事業を始めたが、1月15日には岡田が銀座煉瓦街において死体で発見されるという事件がおきた[84]。また2月には村井茂兵衛の息子が再び訴えを起こし、司法省は5月頃から尾去沢鉱山接収時の大蔵省関係者に対する調査を開始していった[85]

一方井上は辞任していた木戸と板垣の説得にあたり、伊藤に説得された大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。木戸は井上の復帰を考えており、尾去沢銅山事件も汚職ではなく「行政上の誤り」であるから贖罪金の支払いですむのではないかという見解を示している[86]。木戸と伊藤は調査担当者の河野敏鎌を「栄転」させることで調査の終了を目論み、調査官たちも地方へと転勤することとなった[87]。しかし河野の後任となった大島貞敏は井上の関与を疑っており、また世上にも井上の悪評が広まっていた[88]。井上はこのような情勢に不満を持っており、「無罪」判決が下りると思っていたが[89]、12月、尾去沢鉱山接収は大蔵省官吏の過失であり、井上は主犯である部下の第三従であるという東京上等裁判所の判決が下り、30円の贖罪金の支払いを命じられている[90]。判決の翌日である11月27日、井上は元老院議官に任命され、政界復帰を果たした[91]

甲午改革と条約改正

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井上馨(1880年)

明治8年(1875年)9月20日に発生した江華島事件の処理のため、翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆とともに副使として渡海、朝鮮の交渉にあたり2月に日朝修好条規を締結した。6月、欧米経済を学ぶ目的で妻武子と養女末子、日下義雄らとともにアメリカへ渡り、イギリスドイツフランスなどを外遊。中上川彦次郎青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち、7月に帰国した。

大久保暗殺後に伊藤が政権の首班となると、同月に伊藤により参議工部卿に就任、翌12年(1879年)に外務卿へ転任した。

明治14年(1881年)に大隈重信と伊藤が国家構想をめぐり対立したときは、伊藤と協力して大隈を政界から追放した(明治十四年の政変)。この後も朝鮮との外交に対処、翌明治15年(1882年)で壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、また条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館帝国ホテル建設に尽力した。同年、海運業独占の三菱財閥系列の郵便汽船三菱会社に対抗して三井など諸企業を結集させ共同運輸会社を設立したが、のちに両者を和睦・合併させ日本郵船を誕生させた。

明治16年(1883年)に鹿鳴館を建設して諸外国と不平等条約改正交渉にあたり、明治17年(1884年)の華族令伯爵に叙爵された。同年に防長教育会防長新聞の創設、三井物産相談役のロバート・W・アーウィンを通したハワイ官約移民(明治14年に日本を訪問した国王カラカウアと約束していた)にも尽力している。同年12月の甲申事変で朝鮮宗主国のが介入すると渡海。翌18年(1885年)1月に朝鮮と漢城条約を締結して危機を脱した(4月に伊藤が清と天津条約を締結)。

明治18年(1885年)、伊藤が内閣総理大臣に就任して第1次伊藤内閣が誕生し、井上は外務卿に代わるポストとして第5代外務大臣(外務大臣の代数は外務卿から数えるため、初代外務大臣ではない)に就任。引き続き条約改正に専念した。

明治20年(1887年)に改正案が広まると、裁判に外国人判事を任用するなどの内容に反対運動が巻き起こり、井上毅・谷干城などの閣僚も反対に回り分裂の危機を招いたため、7月に改正交渉延期を発表、9月に外務大臣を辞任。このほか、山陽鉄道社長に中上川彦次郎を据えて鉄道建設を進めたり、パリベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めたりしていたが、条約改正と同じく辞任にともない頓挫した。その際に井上の秘書として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルトは勲一等、兄アレキサンダーとともに交渉に関わったハインリヒ・フォン・シーボルトには勲三等がのちに与えられた。両名は医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男と次男である[92][93][94][95]

閣僚を歴任

明治21年(1888年)、伊藤が大日本帝国憲法を作成するため辞任した。黒田清隆が次の首相になると、黒田内閣農商務大臣に復帰したが、かねてより政府寄りの政党を作るべく企画した自治党計画が翌22年(1889年)2月の黒田の超然内閣発言や周囲の反対で挫折、外務大臣に就任した大隈の条約改正案に不満を抱き、5月末から病気を理由に閣議を欠席して引きこもり、10月に黒田内閣が倒閣に陥ると辞任した。12月、悪酔いした黒田が留守中の自宅に押し入り暴言を吐く事件が発生し、黒田に抗議している。

明治25年(1892年)、第1次松方内閣が行き詰まりをみせると、伊藤は側近の伊東巳代治に「黒幕会議」を開催するよう命じた。6月29日に松方邸内で行われた会議の構成員は伊藤・黒田・山縣有朋と現首相の松方正義であり、井上は山口県に帰郷していたため参加できなかった[96]。この会議では第2次伊藤内閣の成立が事実上決まり、「元勲会議」によって後継首相が決まる先例となった[97]。7月30日に松方が辞表を提出すると、明治天皇は伊藤、山縣、黒田に善後処置を諮り、そして2日後には井上馨に対して後継首相の意向を尋ねた[98]。伊藤の伊皿子邸において、伊藤・山縣・黒田・井上、そして山田顕義大山巌を加えた会議が行われ、伊藤を後継首相とすることが確認された[98]。これ以降、井上はその死までほとんどすべての内閣総理大臣推薦に関与し、いわゆる元老の一人として扱われた。

8月8日伊藤が内閣を組織すると内務大臣に就任。11月27日に伊藤が交通事故で重傷を負うと、翌26年(1893年2月6日まで2か月あまり総理臨時代理を務めた。明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発、戦時中の10月15日に内務大臣を辞任し、朝鮮公使に転任。戦時中は陸奥宗光とともに伊藤を支え、翌明治28年(1895年)8月の終戦まで公使を務めた。朝鮮では金弘集内閣を成立させ改革に着手したが、三国干渉によるロシアの朝鮮進出と朝鮮の親露派台頭、ロシアと事を構えたくない日本政府の意向で成果を挙げられないまま帰国した。後任の朝鮮公使三浦梧楼が10月に親露派の閔妃を暗殺する事件を起こし解任されると(乙未事変)、 特派大使に任命され次の公使小村壽太郎の助け役として再渡海、11月に帰国した後は静岡県袖師町(現・静岡市清水区)の別荘・長者荘へ引き籠った。 明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣成立にともない大蔵大臣となったが、半年で倒閣になったため成果はなかった。また、明治33年(1900年)の第4次伊藤内閣で大蔵大臣再任が検討されたが、渡辺国武が大蔵大臣を望み、伊藤がやむをえず承諾したため話は流れた[99][100][101]

大命降下、晩年

明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するにいたった。組閣断念の理由について、歴史家村瀬信一は渋沢をはじめとする財界が政治との関わり合いを嫌ったこと、同じ長州派の伊藤と山縣有朋が憲法、軍事で成果を上げ、それぞれ立憲政友会、官僚集団といった基盤を備えていたことに対し、外交・財政いずれも功績を残せず、政党と官僚閥ともつながりがなく、財界以外に基盤がない点から内閣を諦めたと推測している[102][103][104]

大命拝辞したあとは後輩の桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立させた。桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、明治36年(1903年)に斬奸状を送られる危険な立場に置かれたが、翌37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。明治40年(1907年)、侯爵に陞爵。明治41年(1908年)3月に三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席したときに尿毒症にかかり、9月に重態に陥ったが11月に回復した。

明治44年(1911年5月10日、維新史料編纂会総裁に任命された[105]。明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助、大正2年(1913年)に脳溢血に倒れてからは左手に麻痺が残り、外出は車いすでの移動となる。大正3年(1914年)の元老会議では大隈を推薦、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化、9月1日に79歳で死去した。葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布長谷寺山口県山口市洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。

生前から井上の生涯を記録する動きがあり、三井物産社長の益田孝と井上の養嗣子勝之助が編纂して大正10年(1921年)9月1日、財政面をおもに書いた『世外侯事歴 維新財政談』が上・中・下の3冊で刊行された。昭和2年(1928年)に勝之助の提案で井上の評伝を作ることが決められ、昭和8年(1933年)から翌9年(1934年)にかけて『世外井上公伝』全5巻が刊行された。また、これとは別に伊藤痴遊が明治41年に井上の快気祝いとして評伝『明治元勲 井上侯実伝』を、大正元年に『血気時代の井上侯』を出版している[106][107][108]

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栄典

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人物

要約
視点

人柄

直情径行の人であり、しばしば周囲を怒鳴りつけ、「雷」を落とすことで有名であった。一方、大蔵省時代の右腕・渋沢栄一は怒られることはほとんどなく、周囲も不思議がっていた。第百銀行池田謙三は井上が参加した会議で渋沢を見て、「雷のある以上は、避雷針が無ければならぬ」といって笑ったという[138]ただしその渋沢本人は「本当の避雷針は井上氏」だったといい、どんな攻撃も井上が体をはって受け止めてくれたからこそ自分はやりたいように仕事ができたと述懐している[要出典]

業績

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長州藩士時代の井上馨(明治2年、内田九一撮影)

維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくといった行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は井上がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。一度は官を辞職したが、長州系列の人物と革命の元勲としての威光で、同藩出身の山縣有朋とともに過去の汚職にもかかわらず絶大な存在感を示した。

外務大臣としての従事期間は長く、その間、条約改正に献身的な努力を注いでいた。その成果は次の大隈重信・青木周蔵・陸奥宗光らにいたって現れてきていると考えられる。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであり、国内での影響力と同じ尺度で評価することは適切ではない。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていたために、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていたことがうかがい知れる[要出典]

実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に努めた。日本郵船・藤田組小野田セメント筑豊御三家、特に三井財閥においては最高顧問になるほど密接な関係をもった。尾去沢銅山事件に代表されるように、実際に三井や長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた[139][140]

井上は三井財閥、藤田組などを通して第一国立銀行設立、三井物産創業、三池炭鉱事業の開始、台湾銀行台湾製糖会社の設立、児島湾干拓事業、洞海湾拡張事業などを手がけ、石炭輸出による外貨獲得、日本の近代化を推し進めた。また、各財閥に家憲を制定して同族間の結束を固めることを強調、藤田家憲は明治9年、三井家憲は明治33年、貝島家憲は明治42年にそれぞれ制定、井上の尽力で3家は日本経済を支える財閥に発展した[141][142]。特に三井家憲では井上の「終身顧問」の地位が明記されている[3]

尾去沢銅山事件

江戸末期、財政危機にあった盛岡藩は御用商人であった鍵屋村井茂兵衛から多額の融通を受けた。この代償として茂兵衛は慶応4年11月に尾去沢鉱山の経営権を委任された[143]。また茂兵衛は盛岡藩とその後継である盛岡県の借財に関与させられ、英国人商人からの借金返済義務を負うこととなった[144]

盛岡藩が廃藩となった明治4年、大蔵省は借金の残額と、茂兵衛が盛岡藩から借りうけた金の合計である3万6000円の即時上納を命令した[145]。しかし盛岡藩からの借金というのは、証文上では「奉内借」となっているが、実際には茂兵衛からの貸出であった[146]。茂兵衛は上納金支払いの猶予を求めたが、大蔵省十等出仕川村選はこれを認めず、尾去沢鉱山を大蔵省が買い上げた後に、経営を申し出ている岡田平蔵に払い下げるという稟議書を提出し、井上もこれを承認した[147]。茂兵衛はやむを得ず大蔵省による買上げに同意し、岡田は破格の価格で鉱山を手に入れた[148]

岡田は江戸日本橋出身で、廃藩置県の際の兵器処理で巨利を上げた商人であり、井上や渋沢の元によく出入りしていた[149]。井上自身は司法省の取り調べで「鉱山引受候而ハ如何ト同宅ニ而談候事有」と、事前に尾去沢銅山購入を岡田に打診していたが、一度は断られたと供述し、「尋常之小利而已ニ走ラズ、鉱山抔ヲ盛大ニ起シ、往々輸出ヲ盛ンニスル目途ヲ立ツルコソ、人民ノ義務ナルベシ」と説得して申請書を書かせたと述べている[150]

1873年(明治6年)明治6年前半の政争に敗れて政界を離れた井上は、鉱山を手に入れた岡田に誘われて東北の鉱山視察旅行に出かけた。8月29日には尾去沢鉱山を訪れたが、この際に「従四位井上馨所有銅山」という高札を掲げさせたという真偽不明の噂が広まった[84]。同じ頃、岡田は東京鉱山会社を設立し、尾去沢鉱山の経営権はこちらに移された[84]。井上と岡田は翌年1月に米の売買・軍需品輸入も加えた貿易会社「岡田組」を益田孝らと設立したが、まもなく岡田が銀座煉瓦街で死体となって発見された[84]。同年3月に益田らと先収会社を設立、これが三井物産へと発展していった[151][152]

明治7年から事件に対する調査が本格化し、井上に対する取り調べも行われた。井上は嫌疑を否定し、村井茂兵衛による銅山経営が悪化していたため、銅山経営を無理に岡田に頼んだとしており、高札を立てたという噂も否定している[153]。また「巨細之始末」は覚えがないと述べ、川村の「越度」に対して「粗漏捺印」したことは「無念」であり、四代目村井茂兵衛から承諾書を取り付けなかったのは自分の「不行届」で「上長官」としての責任はあると供述した[154]。 しかし東京上等裁判所の判事は「是ハ全ク遁辞ニシテ、其実ハ商法ノ組合ヲナシ、彼山ニ就キ私利ヲ貪ランガ為メナルベシ」と井上による汚職があったという構えで追求を行っていた[84]。 明治8年12月には関係者に判決が下り、銅山の接収は川村選の過失によるものとされ[155]、井上は贖罪金30円の支払いを命じられた[90]。また村井茂兵衛に対しては大蔵省から2万5000円の還付が行われた[156]

当時は事件の報道は事実関係を単純に伝えるものがほとんどだったが、大正期頃から井上が尾去沢鉱山を強奪したという論調が強くなっていった[157]。一方で井上の公式伝記である『世外井上公伝』[157]や渋沢らは、司法省主導による冤罪と主張している[158]

茶人

明治時代中期から後期にかけては財界に茶道の流行が起きており、多くの財界人が茶席にて交流を行っていた[159]。井上もその一人であり、多くの名物の収集者として知られた[160]。井上の数寄趣味は明治2年頃からであり、祥瑞沓向付を50円で購入している[161]

明治7・8年頃には、牧谿の筆とされる画軸『蘿蔔蕪菁図』二幅[注釈 3]が売り出されることとなった。川崎財閥川崎正蔵が購入しようとした所、井上が強引に買い取ろうとしたため、川崎は「長い物に巻かれて」断念せざるを得ず、無念の思いを抱えていたという[163]

明治20年(1887年)4月26日には明治天皇が井上の麻布鳥居坂邸に行幸し、茶会と歌舞伎鑑賞を行っている(天覧歌舞伎[164]

この行幸の際、明治天皇は『蘿蔔蕪菁図』に目を留めた。これに気づいた井上は、二幅のうち一つを献上しようとしたが、天皇は二幅とも持ち帰ってしまった[165]。井上は一幅の返還を要請したが、天皇は二幅対のものであるから両方とどめおくと言ってそのまま手元においた。かつて井上にしてやられた川崎は、「上には上がある」といって大いに溜飲を下げたという[166]。後に昭憲皇太后空海が描いたという不動明王の画軸を井上に下賜し、代物としている[166][注釈 4]

井上式料理

井上は長崎判事時代に京都から連れてきた料理人に料理を学んで以来、料理を趣味としていた[168]。井上は料理の根本は出汁であると考えており、鰹節昆布ホタテ干し柿ダイコンの六種類の出汁を用意しており、これらを組み合わせて料理を行った[169]。さらに味醂や米酢は使わず、甘酢に甘みをつける際には干し柿の出汁を用いた[170]。また「ただ煮たのでは面白くない」という信念を持っており様々な工夫をするのが常であった[170]。客が食べた物の材料がわからず、井上に問うと、「それは判かるまい。君等には判るまい」と上機嫌であったという[169]

井上が料理を振る舞う際には、料理人たちが調理を行ったが、井上は厳格に指導を行っていた。料理の前には井上に素材が出され、井上が切った通りに料理人も切らねばならず、その後の調理に関しても指示を受けなければならなかった[171]。このため井上邸での宴席の準備は大変な日にちと費用がかかるものであった[171]

また奇抜な食材を用いたことでも有名で、ハナカイドウ花びら、求めていた食材が手に入らないときにはカナリアの卵やクマザサの葉、地下茎を代用として調理させた[172]。大阪の料亭「花外楼」での宴席の際には、吸物ラッキョウ漬けの甘酒を用いたこともあった[173]

ただし、井上の興津別荘の料理人は「命令通りではとても食べられる料理は出来ぬから、御主人の目を掠すめて」料理の味を整えていたという[168]。花外楼の女将も「その味と来ちゃア迚もハヤもう異様な怪ッ体な、名状すべからざる変テコなモノ」であったと回想している[173]

一方で、井上が作った料理の中でも好評なものがあった。それは沢庵であり、餅米から作ったに焼いたの干物などを入れて漬け込んだものであった[174]大正天皇皇太子時代に行啓した際にその味を気に入り[175]、伊藤博文も度々井上に秘密で沢庵をわけてもらっていたという[174]

公式伝記の『世外井上公伝』は、「公の料理は、その性格と同様に、尋常の味覚を以ては味はひ得ない所のものであった」と評している[171]

井上自身の好物は東京日日新聞社長を務めた関直彦によれば数の子であり、「その季節には三度の食膳に必ず供せられ、一と鉢位は難なく平らげらる」としている[176]

住居と別荘

都内のほか、各地に多数の別邸を普請した[177]

  • 鳥居坂本邸 - 1880年竣工。1887年には増築された棟で天覧歌舞伎が行われた。その後、久邇宮、赤星弥之助・赤星鉄馬岩崎小弥太と所有者が変わり、戦後跡地に国際文化会館が建てられた。
  • 内田山本邸 - 鳥居坂近くの麻布宮村町内田山(現・元麻布3丁目、六本木6丁目)に1894年建築。1905年に邸を訪ねたフリーダ・フィッシャー(東洋美術収集家)は屋敷の典雅さに驚き、「なんという静謐さ、なんという気品、なんという簡素さだろう」と感嘆の言葉を残している[178]。1922年に4000坪が売却され、宅地化[179]
  • 龍土町別邸
  • 興津別邸「長者荘」 - 62歳の1896年に隠居所として建設され、興津の別荘地化のきっかけを作った[180]。この家で没したのち養嫡子の井上勝之助が住んだが、1945年の清水空襲により焼失した[181]。約5万坪の敷地に磯部温泉別邸を移築した本館、鳥居坂から移築した別館のほか、みかん畑や庭園、高さ5m弱の巨大な井上馨像(戦時中に供出)などがあった[181][177]。跡地は静岡市埋蔵文化財センターなどが建つ[182]
    • 神奈川県には富岡別邸、横浜野毛別邸、鎌倉稲村ケ崎別邸などがあった[177]

逸話

  • イギリス公使館焼き討ちの際、井上は火をつけるため、炭団に偽装した焼玉を持参することとなっていたが、遊女・於里の家に忘れてしまった。焼き討ちの後、井上と伊藤が於里の家に戻ったが、於里が炭団を火にくべようとしていたため、井上は大いに慌てた。しかし於里は事情を察しており、すでに焼玉を海に沈めていたという[15]
  • 最初のイギリス留学の際、上海に到着した井上ら五人は「何の目的で公開するのか」と密航を請け負った商船会社の支配人に聞かれた。井上は「海軍」の勉強をするためだと答えようとしたが、「Navy」ではなく「Navigation」と答えてしまった。このため「航海術」を学びに来たのだと誤解され、それ以降井上と伊藤は水夫と同じ作業に従事させられ、大変な苦労をすることとなった[183]
  • 仕事上で特に深く関わった人物は渋沢栄一、益田孝、藤田伝三郎貝島太助杉孫七郎杉山茂丸ら多数。長寿だったため、大甥である鮎川義介(実姉常子の孫、日産コンツェルン創始者)や鮎川の義弟・久原房之助(藤田の甥、久原財閥の祖)への指導もしている[184]
  • 伊藤博文とは50年にわたる交友があり、井上本人も「親友」[185]「老友」[186]とし、政治面でも同調することが多かったため、研究者にも「盟友」と評される[187][188]。明治41年に井上が重病に陥った際には、伊藤が朝夕宿舎から井上を見舞い、薬を飲ませたり顔を剃ったりと世話をしていたという[189]。伊藤の没時には「五十年に近い長い間の親友で、ともに萬死の間を往来し、千百の困難も、又君國に対する御奉公も共に遣って来たような間柄であるから、今度の事に就いては何とも言へない感がする」「余の如きは早く世を去つても伊藤公をもつと長く世に遺しておきたかつた」といって嘆いた[190]
  • 恩義を忘れず情に厚い面があり、旧藩主毛利家一族や長井雅楽、高杉晋作の遺族や、命の恩人の医師・所郁太郎の子孫に手厚く報いた。明治8年、高杉の愛人・梅処尼が貧困に苦しんでいたところを有志を募り生活費を与え、明治14年から3年かけて寄付金を集め、明治17年に東行庵を建てて梅処尼を住まわせた。また、明治23年から26年にかけて毛利一族の結束を図り家憲を制定、明治25年から毛利邸建築に着工(完成は大正5年)したことなどが挙げられる。また、明治25年と明治34年に右田毛利家が経営する第百十国立銀行が経営危機に陥ると、伊藤らとともに財政援助を行い破綻を防いだ。第百十銀行はのちにほかの銀行と合併、山口銀行が誕生した[191][192]
  • 親友は吉富簡一(山口矢原の庄屋の生まれ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した)。高杉晋作と伊藤博文とは終世親しく交際していた。
  • 欧米に負けない国劇の創造を目指した演劇改良運動の後援者であり、自らの私邸を天覧歌舞伎の会場として提供した。また歌舞伎役者九代目市川團十郎がかつての養家から泣きつかれて背負いこんだ経営不振の河原崎座の借財整理に協力したこともあった[193]。そのほかの演芸家では、落語家三遊亭圓朝清元節清元お葉義太夫竹本越後太夫などとも親交があった。
  • 明治19年2月10日、外務大臣として鹿鳴館での舞踏会に出席中、十数名の暴漢に襲われそうになったが、警護役の得能関四郎が応戦して11名を逮捕して難を逃れた。この事件は得能の剣客としての名声を高めることとなった。
  • 明治21年、同志社英学校創立者の新島襄同志社大学設立のため自宅を訪れた際、大隈重信、渋沢栄一、益田孝ら親しい事業家たちに募金を募り3万円近く集めた[194]
  • 明治24年、九州の金田炭鉱を訪れた際、柏木勘八郎の引き立てで貝島太助と出会い、正直なその性格を見込んだ井上は不況で経営難に陥っていた彼を助けるため、毛利氏の財産を投資して(井上は家憲制定の件で後見人同然の立場にあった)貝島の窮地を救い、のちに貝島の息子太市と鮎川の妹を娶わせ、その後の貝島財閥の繁栄を導いた。一方、毛利氏の家政は三井物産が担当、資金貸し出しを通して貝島の資産調査・炭鉱への介入を繰り返したため、貝島炭鉱の独立は大正9年(1920年)までかかった[195]
  • 明治30年、維新史編纂事業が進まないことに怒り、毛利家の編集担当者だった宍戸璣を更迭、後任に末松謙澄を据えた。末松が長州藩士ではなかったこと、末松の頼みで井上が委員を解雇して他藩出身の人間に入れ替えたことなどがもとになり、明治34年8月4日に宍戸が新聞に不満をぶちまける、編集委員の中原邦平(長州藩士)が末松と衝突するなどトラブル続きだった。紆余曲折の末に明治44年に防長回天史が出版され大正9年に完全刊行、現代に残る幕末維新史の基本史料ができ上がった[196]
  • 明治35年(1902年)、莫大な借金を抱えた東本願寺に泣きつかれ、本山の放漫財政が赤字の原因と知ると、対策として末寺からの本山統制を主とした財団法人設立を企図した(東本願寺借財整理)。東本願寺の抵抗によりすぐに成功しなかったが、のちに財団が設立された[197]
  • 明治44年11月、中国から製鉄コンビナートの漢冶萍公司総理盛宣懐が訪問した際、三井物産の上海支店長山本条太郎とともに漢冶萍公司の日中共同経営を考え、第2次西園寺内閣の内務大臣原敬にかけ合い資金援助を実現させた。翌明治45年、漢冶萍公司の株主の反発で盛宣懐が解任されたため事業は失敗に終わるが、盛宣懐が井上に送った称賛の言葉を綴った軸が洞春寺に残っている[198]
  • ほぼ毎年遺言書を更新していた。2011年2月15日放送の『開運!なんでも鑑定団』ではそのうちの一通が出品され、200万円の評価額がついた。鑑定にあたっては井上の字が「おとなしい秀才型の字」と評されている[199]
  • 鉄道庁は明治41年、長者荘への病気見舞客のため新橋および神戸発の最急行興津駅に停車させることにした[200]
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評価

要約
視点

政府の要職を多く務め、元老として政府への影響力を終生有した。

突拍子もないことを言い出す傾向、妥協を許さず主張を押し通すところもあった。文久3年のイギリス旅行の途中に停泊した上海で、外国艦隊を目にして攘夷を捨てて開国論に転向したり(伊藤に話したが相手にされなかった)、下関戦争で攘夷か和睦か方針が定まらない藩を非難したり、外相時代の明治18年と翌19年(1886年)にキリスト教推進、外山正一創立のローマ字会加入および演説、群馬県太田市から桐生市一帯を首都とする上州遷都案を立ち上げたり、明治21年に自治党を発案したりしている。これらは欧化主義と非難されたが、条約改正に取り組む井上としては近代化した日本を列強に見せる狙いがあり、合理的な姿勢、新しいものに対する理解の速さから取得の必要性を感じたため、一直線に欧米文化流入に尽力した経過であり、辞任後は立憲政治への対応を考え、政府与党の創造および政府と世論の接点を近づけようとした。しかし、あまりにも先取りしすぎるアイディアを周囲の反応を省みず実行へ突き進んだため、外相辞任にともない事業挫折、あるいは伊藤らに説得され断念したことは井上の強引な一面が災いしたことを示している[201][202]

また多数の財閥への影響力から「日本資本主義発達史上における財界最大の『黒幕』」とも評される[203]。一方で汚職・疑獄に関与した人物であるという評価も多い[157]


同時代人物の評価

  • 木戸孝允「如何なる場合に在つても飯を食ひ得る者は只井上一人、如何なる社会に投じても相当の地位を保つ者は唯彼一人、真に時潮の人世の奴隷とならず自己の流域自己の乾坤を作り得る英雄の資を具ふる者は彼孤一人」[204]
  • 勝海舟「今の處で一流の人物といつたら、まづ伊藤、井上、山縣だらうよ。おれが長州へ談判に行つた時、井上は顔へ膏薬を貼つて出て来たが、これは反対黨に斬られたのだといふ事だつた。其の膽力に至つては、伊藤などはとても及ばない」[205]
  • 山岡鉄舟「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」[206]。1885年(明治15年)5月、山岡は宮内省を致仕後、明治天皇に勲三等に叙されたが辞退している。山岡の弟子小倉鉄樹は勅使であった井上と山岡のやり取りを聞いており、後に著作に残している[207]
  • 大隈重信 「井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また藩内での家格も上で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから、伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事の中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い」」[要出典]
  • 渋沢栄一
    • 「井上侯は世間によく知られている通り、とても悲観的な傾向のあった御仁で、すべての物事を悲観するとともに、また他人の過失を性急に責めるような気質を帯びていられたものである。なので何事に対してもその及ぼす好影響より先に、まず生じる弊害を考えてこれを指摘し、どんな人に対してもその長所を認めるよりは、まずその欠点を見る方に努められたのである。一般に普通の人ならば、教育が普及して国民に学問があるようになったと聞けば、喜ぶのが順当であろう。ところが井上侯は決してこれを喜ばれず、すぐに教育普及の弊害を観、『教育が普及して国民の知識水準を高めた結果は、高等遊民(定職につかず自由気ままに生きるひと)が多くなって国家に災いを生むに至る恐れがある』と嘆かれ、いかに学者が堂々たる立派な財政論を発表するのを見られても、『あれですぐ金を貸してくれ、と頼みに来るんだから、財政論も何もあったものではない』と、罵倒されたものである。私がいろいろ合本組織の必要性を先に立って唱え、会社の設立などに奔走しているのを見られても、『お前などが、あんな手先みたいになって会社会社と騒ぐものだから、会社がみだりに設立され、そのあげく財界を苦境に陥れて、その結果国家の財政をおかしくするのだ』なぞともうされたもので、財政に関しても常に悲観設を抱かれたのである」[208][要ページ番号]
    • 「井上侯は頗る機敏の人で、見識も高く、能く私を諒解して下されたのみならず、又至つて面白い磊落な質で、私と一緒になつて楽む所謂遊び仲間にもなられたので、侯と私とは肝胆相照らす親しい間柄にまで進んだが、明治四年の八月、井上侯の大蔵大輔の下に、私が大蔵大丞であつた頃のことである、大蔵卿の大久保さんが、一日突然に、陸軍省の歳費額を八百万円、海軍省の歳費額を二百五十万円に定めることにしたからとて、当時私と同列の大蔵大丞であつた谷鉄臣、安場保和などを喚び寄せ、その可否を諮問せられた。当日は如何したものか井上侯は其の会議に参与しなかつたのである。」」[要出典]
    • 「井上侯は、孰れかと謂へば元来が感情家であるから、人物を鑑別するに当つても亦感情に駆られ、是非善悪正邪の鑑別が出来ないで、好きだと一度思ひ込んだら、其人に悪るい性質のある事を覚り得ぬまでの盲目になつてしまひさうに思はれるが、決して爾んなことの無かつた方で、人を用ひるには、まづ其人物の是非善悪正邪を識別するに努められ、それから後に始めて用ゆべきを用ひたものである。随て佞人を仁者であると思ひ違へて之を重用する等の事も無かつたものである」」[要出典]
    • 「井上侯とても決して学問の無かつた人では無い。仮令伊藤公までゆかぬにしても兎に角、学問のあつた方である。然し伊藤公のやうに条理整然たる筋道の貫つた議論の出来なかつた方で`形勢が面白く無くなつて来たとか、国家に不利益現象が顕れて来たとか云ふ時にでもなれば、整然たる条理によつて之を是非論評するといふ事をせずに「それでは大変だ」とか「そんな馬鹿な真似をされて堪るものか」と謂つたやう調子で、大きく握んだ議論だけをガヤガヤとせられたものである。然し行には全く敏で、殊に形勢を看取することにかけては最も敏な人であつたから、世の中が如何な風に動いてゆくものか、之を逸早く察知してそれ〴〵臨機の処置を講じ、当面の形勢に応じて片つ端から之を片付けてゆく事には、実に妙を得て居られたものである。単に日本国内の形勢推移を看取するに敏であらせられたのみならず、世界の形勢を看取することにかけても却々敏で、之に対する処置も総て機敏に行つてゆかれたものである。旁々井上侯は、孰れかと謂へば言に訥、行に敏であつた人であつたと申上げるのが、当を得たものだらうと思はれる」[209]
  • 元治元年における井上襲撃事件の犯人の一人であった兒玉愛二郎 は、明治になって神奈川に海水浴に行った際、井上と出会った。その後、宿において井上の発案で座り相撲を取った。兒玉はこの際のことを回想して、「(井上は)負けぬ性の人で『まいりました』ということを言わぬ人であった」と回想している[210]
  • 中村弥六 「世話好き。一旦見込んだ人には身分や出身地の如何に関せず常に満身の誠意を傾注して世話をやいた」[要出典]
  • 曽根松太郎も明治35年に書いた『当世人物評』で井上が人材登用・育成に熱心であることを高く評価している反面、感情の起伏が激しく、些細なことでも激怒・罵倒したかと思えば冷たい対応を取ったりするため、親しい人にも去られて伊藤・山縣の下へ移る者も少なくないと長所と短所を指摘している[211]
  • 徳富蘇峰 「彼は官業反対論者なり。彼は徹頭徹尾民間が出来る業をお役人がやる事は非能率で民間の業を圧迫妨害する…」ものと考えていたことを紹介し、井上の合理主義者としての一面を評価している。また『我が交遊録』では、「無理も言ひ、我侭もするが、親切もあれば、思ひ遣りも深くあつた。それで或は又『井上の表門は如何にも厳重であるが、裏門からは犬でも猫でも、勝手に立入ることが出来る』と云つた者もある。これもそれ程ではあるまいが、何処にか彼には窮屈ではないところもあつたらしく見える。即ち彼にも相応の抜目があつた様だ。そこに或は、彼の人間味があるか知れぬ」と述べている[要出典]
  • カール・フォン・アイゼンデッヒャードイツ語版(ドイツ公使)「前外務卿(寺島宗則)よりよく、温和で礼儀正しい人物であった」[要出典]
  • リチャード・H・ブラントン(御雇英国人)「彼は流暢な英語を話すので、私は必要な仕事を容易に処理することができた」「彼は英語を正確かつ流暢に話し、彼はいっしょに教育を受けたアメリカ人仲間のユーモアと活動的な性質を吸収しているように思われた。私がこれまで会った日本人にこうした活動的な精神を見たことがなかった。彼は同僚日本人の旧套なやり方に対して遠慮会釈もなく嘲り続け、彼特有の方法で活を入れてびっくりさせるのであった。日本沿岸航海のうち、この井上のような下級役人とした児戯に類する論争ほど私の気持を自由で愉快にしたものはなかった」[212]
  • エルヴィン・フォン・ベルツは「井上卿は大いに才能があり、教養があって、新日本の有為の人材の一人である。卿は、他の大部分の日本人に比べて、融通性にとみ、従って外交官としてはいっそう適任である。(中略)卿は生気に満ちた、理智的な面差しの小柄な人物で、ヨーロッパの文化や生活様式を完全に同化した日本人である」「井上伯は、七十歳の老齢だが、まだ白髪が一本もなく、多端な生涯を送って来たにもかかわらず、あのように若々しく見えるのには、いつもながら驚かされる」など、『ベルツの日記』内で言及している[要出典]
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系譜

系図

光亨┳光遠==馨==┳勝之助==三郎┳光貞━光順━光隆
  ┃       ┃       ┃
  ┗馨      ┣千代子    ┣元勝
          ┃       ┃
          =可那子    ┣元廣
                  ┃
                  ┗武子
  • 井上氏
                     柳原承光━━真美子
  ┏━━━井上馨━━━━━千代子             ┃  ┏井上光隆 
  ┗━━━光遠━━勝之助  ┃                  ┣━━┫    
            ||   ┣━━━井上光貞              ┃  ┗井上光博     
            ||  ┃    ┃     ┏━井上光順  
     桂太郎━━━井上三郎      ┃  ┏━━━┫  ┏雅子
                    ┣━┫   ┗━━┫
       伊達宗徳━━二荒芳徳   ┃  ┣井上元勝  ┗君子
               ┃  ┏明子 ┣井上元広
               ┣━━┫   ┗武子
               ┃  ┗治子
   北白川宮能久親王━━━拡子   ┃
                   ┃
            石坂泰三 ┏石坂一義
               ┃ ┃
               ┣━╋石坂泰介
               ┃ ┃
         織田一━━雪子 ┣石坂泰夫
                 ┃
                 ┣石坂泰彦
                 ┃
                 ┣石坂信雄
                 ┃
                 ┣智子
                 ┃
                 ┗操子
                  ┃
           霜山精一━━霜山徳爾


家族・親族

  • 前妻:名不詳。志道慎平の次女。志道氏の養子縁組で結ばれるも、文久3年(1863年)のイギリス密航を機に離縁[213]
    • 娘:志道芳子(万延元年(1860年)に前妻との間に誕生。離縁の際志道氏へ引き取られる)[214]
  • 後妻:武子。父は交代寄合旗本・男爵新田俊純(岩松俊純)。なお、明治維新時には経済的困窮から、大隈綾子とともに茶屋奉公をしていたとされるが高村光雲はこれを否定している。また井上との結婚前に中井弘の妻となり、原敬夫人となった貞子ら二子を儲けたともされるが[215]華族辞典などに記録はなく、武子は馨との婚姻が初婚である[要出典]。実家はのちに男爵家となる[216]
  • 兄:長男・光遠(井上五郞三郞)
    • 甥:児玉幾太郎(光遠の長男、勝之助の兄、児玉源吾の養子)[224]
    • 甥:森祐三郎(光遠の三男、幾太郎、勝之助の弟。来島又兵衛の長男森清蔵の養子[225]三井銀行勤務[226]
    • 甥:伊藤博邦(光遠の四男、幾太郎、勝之助、祐三郎の弟、伊藤博文の養嗣子)
  • 姉:長女・常子、小沢正路の妻
  • 妹:次女・菊子、夭折
  • 妹:三女・孝子、福原元僴の息子彦七の妻[227]
  • 妹:四女・厚子、森清蔵の妻[228]
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脚注

参考文献

関連作品

関連項目

外部リンク

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