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松平勝尹
江戸時代中期の大名 ウィキペディアから
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松平 勝尹(まつだいら かつただ)は、江戸時代中期の大名。下総国多古藩3代藩主。官位は従五位下・玄蕃頭、大蔵少輔、豊前守。初名は勝延(かつのぶ)[2]。
生涯
正徳3年(1713年)[3]、多古松平家分家で300石取りの旗本松平勝久(宇右衛門)の長男として誕生[3][2][注釈 1]。享保6年(1721年)10月15日、9歳で将軍徳川吉宗に御目見[3][2]。享保12年(1727年)2月2日、家督を継ぐ[2]。小普請組に属し、福島左兵衛の支配下であった[4]。
享保14年(1729年)11月23日、本家の多古藩2代藩主・松平勝房の養子となり[3][2][注釈 2](これにともない300俵は収公される[2])、12月1日に徳川吉宗に拝謁[3]。享保21年(1736年)4月6日の養父の隠居で家督を継ぎ[3]、元文元年12月16日(西暦では1737年1月)に従五位下・玄蕃頭に叙位・任官する[3]。
元文2年(1737年)に日光祭礼奉行を務め、元文4年(1739年)・寛保2年(1742年)には日光祭礼奉行代を勤めた[4]。
延享元年(1744年)11月6日に大蔵少輔に遷任する[3]。延享2年(1745年)2月9日に大番頭となり[3]、延享4年(1747年)5月2日に[3]病のため[4]辞職[3]。寛延2年(1749年)3月1日[3]、はじめて領地多古に入る半年間[4]の暇を得る[3]。寛延4年(1751年)2月5日に豊前守に遷任する[3]。
明和4年(1767年)1月28日、多古藩飛地領・下野国都賀郡西見野村(現在の栃木県鹿沼市見野)の長光寺境内で崖崩れがあり、万里小路藤房ゆかりの品と思しき銅鏡(柄鏡)、銅製の観音立像・銅塔や古銭が発見されるという出来事があったという[5]。このことは明和5年(1768年)1月29日付で領主松平豊前守(勝尹)から老中松平右近将監(武元)宛に報告がなされ、2月3日に出土品が老中列席の場に提出された[6][注釈 3]。
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系譜
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[8]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
脚注
参考文献
外部リンク
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