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松平忠敬
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松平 忠敬(まつだいら ただのり)は、武蔵国忍藩第5代(最後)の藩主。従三位。のち子爵。奥平松平家13代。
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略歴
安政2年(1855年)7月14日、出羽国米沢藩主・上杉斉憲の六男として誕生した。幼名は篤之助。母は松平頼恕の娘。妻は伏見宮邦家親王の十二女・貴子(節宮)。子は松平忠寿(長男)。官位は従三位。
明治2年(1869年)4月、先代藩主・忠誠の養嗣子となる。同年8月19日、忠誠の死去により家督を継ぎ知藩事に就任した。同年8月24日、従五位に叙任する。その後、藩政改革を行なう。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されて東京へ移る。
明治5年(1872年)1月、明治政府からイギリス渡航の許可を得る。当初は2年間の自費留学の予定であった。明治7年(1874年)2月、イギリスへの滞在延長を願い出ている。第三十二国立銀行設立初期の1879年には頭取の平瀬亀之助に次ぐ大口株主であったが、1882年には同行より貸付金未返済の訴えを起こされ、裁判沙汰となる[1]。
明治17年(1884年)1月、滋賀県御用掛に就任する。同年7月、子爵となる。しかし、旧藩士の不正事件などがあってその地位を追われ、故郷の米沢に戻って中学校教師を務めた。明治28年(1895年)に東京へ戻り、大正8年(1919年)11月15日に死去。享年65。墓所は東京都台東区谷中の天眼寺。
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家族
脚注
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