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松阪大映劇場
日本の三重県松阪市にある映画館 ウィキペディアから
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松阪大映劇場(まつさかだいえいげきじょう)は、日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8]。1940年(昭和15年)前後に三重県松阪市湊町にアサヒ館(アサヒかん)として開館[9][10][11][12][13][14][15][16][17][18]、1960年(昭和35年)前後に現館名に改称した[19]。改称当時は大映の封切館であったが、1970年(昭和45年)前後に同系列から独立、成人映画館に業態変更した[7]。略称は松阪大映[5][7][8]。
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沿革
データ
歴史
要約
視点

正確な時期は不明であるが、第二次世界大戦前の1940年(昭和15年)前後の時期に、国鉄(現在のJR東海)松阪駅西口、湊町153番地に同館の前身であるアサヒ館が新築・開館された[9][10][11][12]。開館当時の同館は、的場信一の個人経営であり、支配人は大久保匡記、観客定員数は400名という記録が残っている[11][12]。
同館が建つ前の松阪市、市制施行以前の当時の飯南郡松坂町には、旧制中学校時代の小津安二郎が通ったことで知られる神楽座(愛宕町、経営後藤藤男)[9][10][21][22][23][24] のみが長らく存在し、アサヒ館とほぼ同時期に巴座(のちの巴映画劇場、日野町2丁目)が開館している[9][10][11]。当時のアサヒ館は、1,000人収容の神楽座、990人収容の巴座に比して、400人という比較的小さな映画館であった[11][12]。1942年(昭和17年)には、東宝映画が直営する松阪東宝映劇(平生町)が開館している[12]。
戦後の同館の経営は、的場信一の個人経営から、的場が代表を務めるアサヒ興業株式会社の経営に変わっている[13][14][15][16]。アサヒ興業株式会社は、1950年(昭和25年)1月に設立された[5]。同市内には、同館のほか戦前からの巴映画劇場があり、神楽座も残っていたが、1951年(昭和25年)12月16日に起きた「昭和の松阪大火」により全焼し、神楽座は火災後の復興はなされなかった[25][26]。1957年(昭和32年)までに国際劇場、松阪日活劇場(中町)、近代劇場(松阪近代劇場、京町)および近代コニー、いすず会館南劇・東劇(五十鈴町)、スバル座(松阪スバル座、新町)、松阪映画、紅葉座と多くの映画館が開館している[17]。同館は、1960年(昭和35年)前後に松阪大映劇場と改称、同時期に同館を経営するアサヒ興業の代表も、大久保喜助に変わっている[18][19]。このころは、大映の封切館であり、大映配給の映画をロードショー公開していた[7]。
1970年(昭和45年)6月、大映は日活と配給網を統合し、配給会社ダイニチ映配を設立するが、この前後に同系列から独立、成人映画館に業態変更した[7]。以降、日活ロマンポルノの三本立興行を始め、1988年(昭和63年)に日活が成人映画から撤退した後は、新日本映像の配給作品の三本立興行を行い、現在に至る[7][8]。同時期に、同館を経営するアサヒ興業の代表に大久保克己が就任している[1][2]。『映画年鑑 1992 別冊 映画館名簿』によれば、1990年代初頭の同市内の映画館は、同館と戦前からの巴映画劇場のほか、松阪近代劇場、松阪パールシネマ1・2(塚本町荒木、現在の塚本町81番地5号)の5館になっていた[3]。2001年(平成13年)になると、同館のほかは松阪パールシネマ1・2以外すべて閉館してしまっていたが、2013年(平成25年)現在では、同館は同市内に残る最後の映画館として、デジタルシネマではなく35mmフィルムによるプリント上映のみで営業を続けている[6]。
アサヒ興業
アサヒ興業株式会社(アサヒこうぎょう)は、日本の映画興行会社である[20]。「松阪大映劇場」を経営する、松阪商工会議所会員企業である[20]。
脚注
参考文献
外部リンク
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