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林文龍
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林 文龍(りん ぶんりゅう)は、中華圏の人名。
林 文龍(りん ぶんりゅう、1899年 – 没年不明)は、中華民国の官僚。張学良の腹心として外交活動に従事。後年、中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会に参加した。
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事績
初期の活動
日本へ留学し、1926年(民国15年/昭和元年)[2]に日本大学法文学部政治学科を卒業[注 2]。帰国後は張学良配下となり、陸海空軍副司令部参事や北平綏靖公署参事を歴任し[1]、外交活動を担っていたと見られる。1928年(民国17年)7月、同僚の陶尚銘と共に張の使者として来日し、同月30日には浜口雄幸と面会した[3]。
1937年(民国26年)7月、盧溝橋事件後に江朝宗を主席(または会長)とする北平地方(治安)維持会が成立すると、林文龍は常務委員として参加した[4]。
親日政権での活動
王克敏が中華民国臨時政府を創設すると、林文龍もこれに参加する。1938年(民国27年)4月、実業部(総長:王蔭泰)が新設された際に、林は同部参事に任命された[5]。また、『政府公報』には記載がないものの、同年6月までには行政委員会参事を兼任している[6]。臨時政府の一員として林は、対中経済支援を日本に求める論稿を日本で発表した。中でも『文藝春秋』(昭和13年12月号)で発表した「日本知識人に愬ふ ―新支那建設に就いて―」[7]は、日本国内でも関心を呼んでいる。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。この際に実業部も実業総署に改組され、林文龍は同総署参事代理に重任(留任)したが[8][注 3]、それから間もなく華北政務委員会政務庁情報局局長を兼務し[9]、同年8月には局長専任となった[10]。情報局局長としての林は華北における文化・出版分野での宣伝工作に取り組んでおり、具体的には対日協力正当化や重慶国民政府非難の言論を大規模に展開している。
1943年(民国32年)2月、華北政務委員会委員長が王揖唐から朱深に交替した際に、委員会で大規模な人事異動が行われた。この際に林文龍は、情報局局長を辞任している[11](後任は管翼賢)。同年12月、東京都麹町区の聯合出版社から自著『参戦と建設華北』を刊行した[注 4]。情報局局長を退任した後、林文龍は華北軽金属株式会社において監事に就任している。
汪兆銘政権崩壊後の動向
汪兆銘政権崩壊後の1947年(民国36年)7月15日、華北軽金属は閉鎖機関として指定されたが[12]、この時点でも林が監事に在任していた旨記録されている[13][注 5]。すなわち、この時点での林は漢奸としての摘発を免れていたものとみられる。
1947年7月以降における林文龍の動向については不明となっている。
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脚注
参考文献
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