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管翼賢

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管翼賢
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管 翼賢(かん よくけん、1894年1951年5月20日)は、中華民国のジャーナリスト・官僚。国民政府時代において北京の有力ジャーナリストとして台頭。中華民国臨時政府が成立すると親日派新聞を運営し、南京国民政府(汪兆銘政権華北政務委員会では情報局局長としてメディア統制に従事した。

概要 管翼賢, プロフィール ...

事績

北京ジャーナリストとしての台頭

1928年(民国17年)10月、北平で新聞紙『実報』を創刊し、自ら社長となった[2][3]。『実報』は「小報」[注 2]と目され、発行部数25,000ほどであったため、「大報」各紙の4,000~8,000部をはるかに凌いでいた。また管翼賢自身も、入江啓四郎の評価によれば「有能な政治記者であり、政界に知己多く、日本語も出来る」とのことである[4]1937年(民国26年)1月、北平市政府秘書長をつとめたとされる[2]

親日政権での活動

1937年(民国27年)12月、王克敏中華民国臨時政府を創設したが、管翼賢は在野に留まっており直接の任用は見受けられない[注 3]。ただし、臨時政府や日本軍(山家亨ら)などによる華北情報工作には管は協力しており、例えば1939年(民国28年)には親日派の新聞『武徳報』社社長に転じている[5]。また、中華民国新民会全国協議会副会長や『華北日報』社長[注 4]などもつとめたとされる。1940年(民国29年)3月、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流して華北政務委員会に改組される。管は同年7月に中華新聞学院教務主任兼新聞学総論教授となったものの、依然として在野にあった[2]

華北政務委員会委員長が朱深となった1943年(民国32年)2月、管翼賢は華北親日政権で直接任用を初めて受け、華北政務委員会政務庁情報局局長代理[注 5]として抜擢された[6][注 6]。同年4月には華北剿共委員会総会伝報処処長を兼任し[7]、5月から8月までは同会事務主任を代理兼務している[8][9]。11月、華北政務委員会の機構改革により情報局は華北政務委員会総務庁所属と改められたが、管は局長代理に重任(留任)した[10]

末路

1945年(民国34年)8月、汪兆銘政権が崩壊すると、管翼賢は漢奸として逮捕されている。翌1946年(民国35年)4月12日から管は河北高等法院で審理され、11月11日、死刑判決を受けた[11]。しかし、中華民国統治下においては死刑を執行されなかった[2]中華人民共和国成立後の1951年5月20日、管は北京市人民政府から改めて反革命罪に問われて死刑判決を受け、即執行となった。享年58[1][注 7]

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注釈

  1. 人民日報』1951年5月23日、第6版に「五十八歳」とあり、数え年で計算すると「1894年生」となる。徐主編(2007)、2311頁は「1899年(光緒25年)生」としているが、ここでは『人民日報』に従う。
  2. いわゆる「タブロイド紙」に相当する新聞の総称。「大報」は一般紙に相当する。
  3. 少なくとも、臨時政府が発行していた『政府公報』には管翼賢の人事情報が見当たらない。臨時政府の情報機関は「行政委員会情報処」であり、情報処処長は周竜光(周二為)がつとめていた(1938年10月~1940年1月)。
  4. 『華北日報』は中国国民党機関紙だったが、日本軍占領後に接収され、親日派新聞へと改組された。
  5. 張学良の旧部下であった林文龍(1940年6月~1943年2月)が前任。
  6. 当初、管翼賢は北京特別市公署社会局局長として任用される見込みであったが、これは取消となっている(華北政務委員会令、会字第915号、民国32年2月22日〈『華北政務委員会公報』第191・192期、民国32年2月28日、本会13頁〉)。
  7. 同日に処刑された著名人物としては、張海鵬張仁蠡張仲直富双英池宗墨などがいる。
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出典

参考文献

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