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林閬苑

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(はやし ろうえん(りょうえん)[1]、生卒年不詳[2])は、江戸時代中期の絵師

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「芭蕉九官鳥図」 個人蔵 芭蕉は南蘋派の作品でしばしば見られるモチーフ。九官鳥のポーズは、伊藤若冲鹿苑寺大書院障壁画の「芭蕉叭々鳥図襖絵」における叭々鳥と同じ。

名は新・又新、は日新、苑のほかに章齢・蟠龍洞・筆飛将軍など。通称を秋蔵(秀蔵とも)・蔵。大坂の人。

略伝

幼少より画を好み、長じて池大雅の高弟・福原五岳に師事する。このときの同門・黒田綾山と画友となる。東東洋木村蒹葭堂維明周奎などと交友。安永2年(1773年)から4年間、維明に請われて京都相国寺にある狩野孝信障屏画修復に携わり、寺院に収蔵される名画を実見し研究。またの豪商の収蔵する中国・の画を臨模して画業を研鑽。大坂道頓堀幸橋付近に居を構え、「筆飛将軍」と自称し、「唐画師」として活躍。「苑」と言う聞きなれぬ言葉は「仙人の居所」を意味し、『続仙人』や『宣和画譜』など絵師と関わりある中国書物に出典が求められ、苑の中国志向が窺える。しかし、40歳未満で夭折。一説に、苑はその一生をほとんど自己の研鑽に費やし、中国の風物に接しようと渡航を願いでるが許されず、遂には憤死したとも言われる[3]

山水は大胆で自由な筆遣いで中国風に描き、花鳥画・人物図は沈南蘋の影響から緻密で濃密な色彩を特徴とし、美人画を得意とした。岡本豊彦によると、苑は和泉国の豪家にある代絵画に学び、着色の美人画は仇英に、墨画の人物画は張平山に似ていると評している。東東洋の言では、安永2年(1772年)頃苑は30歳ほどで、青墨の使い方を学んだという。

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作品

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ギャラリー

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(左)伏見桃山真景図        (中)瀧山水図            (右)中国人物図

脚註

参考文献

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