トップQs
タイムライン
チャット
視点
林閬苑
ウィキペディアから
Remove ads
林 閬苑(はやし ろうえん(りょうえん)[1]、生卒年不詳[2])は、江戸時代中期の絵師。

略伝
幼少より画を好み、長じて池大雅の高弟・福原五岳に師事する。このときの同門・黒田綾山と画友となる。東東洋や木村蒹葭堂、維明周奎などと交友。安永2年(1773年)から4年間、維明に請われて京都相国寺にある狩野孝信の障屏画修復に携わり、寺院に収蔵される名画を実見し研究。また堺の豪商の収蔵する中国・明の画を臨模して画業を研鑽。大坂道頓堀幸橋付近に居を構え、「筆飛将軍」と自称し、「唐画師」として活躍。「閬苑」と言う聞きなれぬ言葉は「仙人の居所」を意味し、『続仙人』や『宣和画譜』など絵師と関わりある中国書物に出典が求められ、閬苑の中国志向が窺える。しかし、40歳未満で夭折。一説に、閬苑はその一生をほとんど自己の研鑽に費やし、中国の風物に接しようと渡航を願いでるが許されず、遂には憤死したとも言われる[3]。
山水は大胆で自由な筆遣いで中国風に描き、花鳥画・人物図は沈南蘋の影響から緻密で濃密な色彩を特徴とし、美人画を得意とした。岡本豊彦によると、閬苑は和泉国の豪家にある明代絵画に学び、着色の美人画は仇英に、墨画の人物画は張平山に似ていると評している。東東洋の言では、安永2年(1772年)頃閬苑は30歳ほどで、青墨の使い方を学んだという。
Remove ads
作品
Remove ads
ギャラリー
脚註
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads