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査慎行
清代の詩人・政治家 ウィキペディアから
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査 慎行(さ しんこう、1650年 — 1727年)は、中国清朝初期の詩人、文学者。原名は嗣璉(しれん)、字は夏重、号は査田。後に慎行と改名し字も悔余と改めた。号にはほかに他山と煙波釣徒がある。査慎行の詩は査升の書道、朱白恒の画とともに、海寧三絶と呼ばれる。査慎行は武侠小説家の金庸の先祖である[1]。
略歴
出身地は浙江省の海寧(現在の海寧県)で、明末以来、多くの学者、官僚を輩出したことで知られる海寧査氏の一族である。5歳から詩をつくった。10歳の時、黄宗羲に師事し、経学を研究し中でも『周易』に最も心得があった。20歳から雲南、貴州、華中、華北、東南の各地を遊歴し、大量の詩を賦して名を成した。23歳で童子試に合格し、康熙三十二年(1693年)に挙人となり、康熙四十二年(1703年)には53歳で進士に及第した。康熙二十八年(1689年)、査慎行が『長生殿』の「国恤張楽」事件に巻き込まれて免職された。[2]。康熙四十一年(1702年)、康熙帝の東巡を機に大学士陳廷敬などが推薦、詔によって南書房に入った。康熙四十二年(1713年)、翰林院編修となった。康熙五十二年(1713年)退職して故郷に帰り、長年隠棲した。雍正四年(1726年)、査慎行は弟の査嗣庭の「犯訕謗」事件に連座して「家長失教」罪で逮捕。1727年、査慎行は家で逝世した。
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脚注
参考書目
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