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栗栖王

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栗栖王(くるすおう、天武天皇11年(682年) - 天平勝宝5年10月7日753年11月6日)は、奈良時代皇族栗林王とも記される[1]。天武天皇の孫。一品長親王の子。官位従三位中務卿

経歴

養老7年(723年)無位から従四位下に叙せられる。

天平5年12月(734年2月)雅楽頭に任ぜられる。翌天平6年(734年)2月1日に朱雀門歌垣が行われ、五位以上の風流心のある者男女240余人が参加し聖武天皇も出御したが、その際に長田王門部王・野中王らとともに頭の一人として参加した[2]。天平9年(737年)従四位上、天平15年(743年正四位下に昇叙。

天平12年(740年)に発生した藤原広嗣の乱後、それまでの平城京から恭仁京紫香楽宮難波宮と短期間の内に遷都が繰り返されていたが、天平17年(745年)5月に平城京の薬師寺に遣わされて四大寺(薬師寺・大安寺元興寺興福寺)の僧侶を集め、都をどこに置くべきかの意向を確認したところ、全員から平城京を都とすべきとの意見を得た(この時の官職大膳大夫[3]。まもなく、難波宮から平城京への遷都が行われた。

孝謙朝の天平勝宝4年(752年従三位に叙せられ公卿に列すが、翌天平勝宝5年(753年)10月7日薨去享年72[4]。最終官位中務卿従三位[5]

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官歴

続日本紀』による。

系譜

脚注

参考文献

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