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桂文三
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桂 文三(かつら ぶんざ)は、上方落語の名跡。本名跡は約90年絶えていたが、桂つく枝が2009年5月16日に5代目を襲名した[1]。

- 江戸
- 桂文三 - 生没年不詳(活動時期は明治末期[要出典]から昭和10年代[2])[注釈 2]。本名: 浅倉 喜一郎[2]。こちらはぶんざと読まず、ぶんぞうと読む。 最初2代目三遊亭圓左の門で三遊亭左傳次、1916年に三遊亭小圓左、1918年に一時春風亭柳若(師匠等不明)を名乗るがすぐに小圓座に戻る[2]。1920年に圓昇(師匠等不明)[2]。俗初代柳家三語楼の門で三朝楼[2]。1926年に重楼[2]。1935年に8代目桂文治の門で文三になる[2]。
- 上方
- 桂文三 - 以上の各代以前にも、初代桂文治門下に文三の名が見える[3]。
- 桂文三 - 天保14年(1843年)の見立番付の前座にも、別の文三の名が見られる[要出典]。
- 初代桂文三 - のちの桂文左衛門[3]。
- 2代目桂文三 - 当該項目で記述。
- 3代目桂文三 - 当該項目で記述。
- 4代目桂文三 - 本項にて記述。
- 代外桂文三 - 3代目文三門下の初代桂ざこばは、4代目文三没後、5代目文三を名乗っていたが、正式な襲名などは行わなかったようで、代数に入れられていない[要出典]。
- 5代目桂文三 - 当該項目で記述。
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4代目 桂 文三(かつら ぶんざ、1886年 - 1921年10月10日[3])は、明治・大正時代の上方落語の落語家。本名: 高田卯之助[3]。
3代目文三の実子[3]。18歳の時、父の門下であった3代目桂扇枝を頼って密かに神戸の寄席に出るが、間もなく父の知るところとなり、正式に父のもとに入門し桂小文吾を名乗る。父の方針により京都で修行したが、前座時代は真面目で「模範前座」と言われるほど器用であり、将来を嘱望された。1904年に小文三と改名して大阪の父の元に戻り[要出典]、1921年4月に4代目文三を襲名するも、その半年後に脱腸の手術が失敗して[要出典]急逝[3][注釈 3]。享年35[3]。
初代桂雀三郎(後の2代目桂小文枝)や初代桂三輔(後の初代桂ざこば)らとともに桂派の若手として活躍するが、明治末期に父ととも三友派に移籍した[3]。『名古屋甚句』や『オッペケペー』などの音曲も得意とした[3]。音曲や小噺をSPレコードに録音している[3]。
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脚注
参考文献
関連項目
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