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桜井賢三

日本の教育者 ウィキペディアから

桜井賢三
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桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年明治13年)3月5日 - 1950年昭和25年)12月29日[1])は、日本教育者

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桜井賢三
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桜井賢三

経歴

岐阜県安八郡墨俣町(現在の大垣市)出身。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した後、1910年(明治43年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業した。福島県立相馬中学校校長、山口県室積師範学校校長、静岡県師範学校校長、東京府豊島師範学校校長、京都府立女子専門学校校長を歴任。1935年(昭和10年)、東京府立第一高等女学校校長に就任し、東京府立第十四高等女学校校長も兼ねた。

東京高師時代(明治35年、1902年)、日本で初めてサッカーのチームができた際の選手の一員として、1904年には初めての外国人チーム(横浜のYCAC)との試合を現在の横浜スタジアム(当時の横浜公園)でやったことでも知られる。

長男は東京学芸大学教授であった櫻井芳朗(東洋史)、孫に一橋大学教授であった櫻井雅人(英語学、音楽史)、櫻井澄夫(地名研究家)がいる。墓地は多磨霊園にある。

著書

  • 『国民道徳と現代思想』(東京宝文館、1925年)
  • 『現代の教育者』(東京宝文館、1926年、ゆまに書房、1991年(復刻版))

脚注

参考文献

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