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桜町牢

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桜町牢(さくらまちろう)は、江戸時代長崎の桜町に造られた牢獄[1]

概要

慶長5年(1600年)、馬町などにあった牢屋敷が桜町に移され、慶長19年(1614年)にサン・フランシスコ教会と修道院が取り壊され、その跡地に牢獄が設置された[1][2][3]。当初は未決囚と既決囚を収容していたが、寛延元年(1748年)以降、浦上村山里山王社の近くに溜牢が出来てから、主として既決囚だけを収容した[1]

牢守は1人、牢番は10人。総坪数は、『長崎諸役所絵図』では744坪[4]、『桜町牢屋絵図』では714坪となっている[2]。構内は2区に分かれ、獄舎は3棟。各棟は3室で方3間の監房2室の間に番所が置かれた[2]。正門の北西隅に拷問所、中門の右手に供部屋と吟味所、その後手に牢守宿舎や牢番長屋があった[2]。一般庶民を入れる牢屋と、士分の者や神官、僧侶あるいは漂流者などを入れる揚屋があった[4]。この牢には多数のキリシタンが投獄され拷問を受けた。

牢屋敷が出火した時は、入牢中の者は期限を切って仮釈放され、指示された通りの日時までに戻って来た者は、判決の際、罪一等を減じられた[5]

死罪以上の極刑に処せられる者は、処刑前に市中引き回しにされたが、その引き回しの出発点も桜町の牢屋敷からで、長崎の町中を回った後、西坂にある処刑場[1]まで続けられた[6]

明治維新後は、桜町監獄と改称された。西坂の処刑場に代わって、ここの拷問所で処刑が行なわれた[2]

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脚注

参考文献

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