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森川俊胤

日本の江戸時代前期~中期の大名 ウィキペディアから

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森川 俊胤(もりかわ としたね)は、下総生実藩の第4代藩主。江戸幕府若年寄である。

概要 凡例森川俊胤, 時代 ...

生涯

寛文10年(1670年)4月12日、第3代藩主・森川重信の長男として江戸藩邸で生まれる。第5代将軍・徳川綱吉御伽衆に任じられた。元禄5年(1692年)6月27日、父が病気により隠居したため家督を継ぎ、10月29日に奥詰に任じられた。元禄6年(1693年)4月22日に綱吉の小姓に任じられ、5月4日には大番頭に任じられた。12月18日に従五位下・紀伊守に叙位・任官する。

その後は幕命により大坂城二条城江戸城の城番を歴任し、宝永5年(1708年)1月16日に出羽守に遷任する。綱吉没後の宝永6年(1709年)4月6日には第6代将軍・徳川家宣の側衆に任じられ、宝永7年(1710年)9月21日に寺社奉行奏者番を兼任する形で任命された。正徳4年(1714年)9月6日に若年寄に任じられ、江戸城西の丸修築などで功績を挙げた。

第8代将軍・徳川吉宗にも仕え、享保の改革では月光院大奥の諸事を担当する役目を任じられたが、次第に吉宗から疎まれて享保2年(1717年)11月16日に若年寄を解任された。享保9年(1724年)、吉宗の世子である徳川家重元服すると、家重の「重」が自らの名前と同じであることを避けるために、子の重基(改名して俊常)と共に名前を重令(しげのり)から俊胤と改名した。

享保17年(1732年)閏5月11日、病気により家督を次男の俊常に譲って隠居し、出家して悠計と号した。俊常は享保19年(1734年)7月1日に俊胤に先立って38歳で死去した。寛保2年(1742年)に鉄砲洲の下屋敷に移り、延享3年(1746年)1月24日に死去した。享年77。

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系譜

父母

正室

側室

  • 放雲院

子女


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