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森西栄一

東京オリンピック組織委員会の職員 (1933-1970) ウィキペディアから

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森西 栄一(もりにし えいいち、1933年昭和8年1月10日[1][2] - 1970年昭和45年2月13日[3][4])は、1964年東京オリンピック開催時の「東京オリンピック組織委員会」の職員。

そして1964年東京オリンピック開催準備の一貫として企画組織された「聖火リレーコース踏査隊」の一員であった[5]

生涯

要約
視点

生い立ち

1933年昭和8年1月10日[1][2]徳島県木屋平林(現:美馬市)に生まれた[2]

木屋平村立三ツ木小学校三ツ木中学校徳島県立城東高等学校と在学進学し卒業後[4]上京し、タクシー会社「帝産オート」永田町営業所[6]でタクシー運転手として働きながら、法政大学二部(夜間学部)法学部に通っていた[5][7]

聖火リレーコース踏査隊と1964年東京五輪

ある日、森西が運転するタクシーに、1964年東京オリンピック開催準備に関わっていた亀倉雄策丹下健三が乗り合わせた。

そして亀倉と丹下の二人の口から、東京オリンピックで行われる聖火リレーアテネからシンガポールへの陸路調査の企画構想の話題が上がった[8]。 それを耳にした森西は、その場で直ちに二人に運転手として参加することを志願した[5]

そして森西は法政大学を卒業後、世界デザイン会議事務局に勤務[4]。丹下健三の付き人兼運転手を務めた[7]後、東京オリンピック組織委員会嘱託となり、聖火リレーの陸路調査の運転手として採用された[5][9]

そしてその調査隊は「聖火リレーコース踏査隊」と名付けられた[10][11]

東京オリンピック組織委員会と朝日新聞社日産自動車により企画実行された[12]「聖火リレーコースコース踏査隊」は[11]麻生武治を隊長として[11]ブランデージIOC会長やカール・ディームドイツ語版博士や高石真五郎など、数々のオリンピック関係者たちに見送られながら[13][14]1961年昭和36年6月23日ギリシャアテネからオリンピアを抜けて出発[14]。ギリシャからトルコシリアイラクアフガニスタンインドなどのユーラシア大陸各国を訪問し、歓迎を受けながら過酷な陸路を横断していった[15][14]

ところがアフガニスタンに入ると隊員たちの中から急病人が発生し、またソ連領内への踏査隊の受け入れ拒否や旅費盗難、ガンジス川氾濫など、ありとあらゆるトラブルが多発[14]。そして徐々に踏査隊内の人間関係も悪化しニューデリーで隊長の麻生武治を含めた計二名の帰国者が出てしまう事態となってしまった[8][16][17]

それでも運転担当であった森西と安達教三他、計四名の隊員はなんとかシンガポールまでの難路の運転をこなし到着し、1961年昭和36年12月28日羽田空港に到着し日本に帰国した[8][18][19]

そして聖火リレーの陸路コースは断念され[20]、代わりに聖火リレー空路コース案に方針転換した。その為の調整各地歴訪の旅となる「高橋ミッション」が行われ、1964年東京オリンピック組織委員会の一員であった高橋文雄のパートナーとして森西栄一が選ばれ随行した[2]

1962年昭和37年)3月中旬、羽田空港を出発し、3月15日イランテヘランから、4月19日には踏査隊が訪問しなかったインドネシアジャカルタまで足を伸ばし、電光石火のごとく各国の要望を聞きながら、そして既に陸路案の同意を取り付けていた関係各国からの反発やトラブルを招いてしまいながらも、各国からの「聖火空輸案」への同意をなんとか取り付けていった[21]

そして1964年昭和39年4月2日には再び高橋文雄率いる「オリンピック聖火国外現地調査団」の一員として起用され、ギリシャトルコレバノンイランビルマインドパキスタンバンコク香港台湾など聖火リレーコースを通る関係各国を訪問し、その調整を手助けした[22]

その後、東京オリンピック組織委員会嘱託として、吹浦忠正たち若者を助けながら1964年東京オリンピックの裏方業務を務めた[3][7][23][24][25][26]

サファリラリー参加とその最期

「聖火リレー踏査隊」の長旅を終えた後、森西は安達教三に、自分はサファリラリーへ出場するのが夢であると伝えた[5]。そして二人はその夢に向けて行動していった。

1964年東京オリンピック終了後の1965年昭和40年)には日産自動車に入社し[27]、そのスポーツクラブに所属し技術相談員として勤務した[4]

その一方で1967年昭和42年)10月には日本体育協会関係者の女性と結婚し、1969年には娘が生まれた[3]

そして1970年昭和45年)、念願が叶いサファリラリーのプライベートの出場者として参加した[27]

ところがサファリラリー大会前の2月13日[1][4]、小手調べとして参加した「ペプシコーララリー」へ向かう途上[27]ケニアナクル湖近くの道路で地元の大型トラックと正面衝突し事故死した。37歳だった[27][28][29]

森西は衝突寸前に、同乗者であった安達教三を守るように運転席をトラックに向けハンドルを切り、安達の命を守ったという[3][30]

死後

森西栄一の葬儀は東京・目白の東京カテドラルにて執り行われた[1]

1964年東京オリンピックの関係者たち、東京都職員、教師、スポーツ関係者、そして国家公務員など、数多くの人々が参列した[1]

そして一人娘を抱っこする母の姿に参列者は涙したという[1]

その後安達教三は、森西の思いを受け継ぐかのように、年老いるまで国内外の数多くの自動車レースに参加した[1][31]

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関連作品

テレビドラマ

脚注

参考文献

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