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植民地・インド博覧会

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植民地・インド博覧会
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植民地・インド博覧会(しょくみんちインドはくらんかい、英語: Colonial and Indian Exhibition)は、1886年5月4日から[2]11月10日にかけて[3]ロンドンサウス・ケンジントン英語版で、豊富な展示物を用い、「商業を活発にし、女王陛下の帝国内の全ての地域の絆を強めること」を目的に開催された博覧会[4]。この博覧会は、ヴィクトリア女王によって開会され、会期中に550万人の入場者があった[5]

概要 EXPO 1886, 概要 ...
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「植民地・インド博覧会を開会する女王陛下:インド宮殿の正面入口を進まれる」、イラストレイテド・ロンドン・ニュース1886年5月。[1]
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展覧会におけるジャマイカの展示。
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会場で販売された、イギリス帝国 の版図を示す亜麻布の地図。
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展示

博覧会には、イギリス領インド帝国自治領カナダニューサウスウェールズ植民地ビクトリア植民地南オーストラリア植民地クイーンズランド植民地西オーストラリア植民地ニュージーランド自治領フィジーケープ植民地ナタール植民地セントヘレナおよびアセンション諸島セイロンモーリシャス海峡植民地香港ギアナ西インド諸島トリニダードイギリス領ウィンドワード諸島英語版グレナダセントビンセントトバゴセントルシアバハマ英領ホンジュラス西アフリカ定住地ゴールド・コーストラゴス植民地マルタキプロスフォークランド諸島が出展した[6]

展示物の中には、ニュージーランドから運ばれたマオリの墓[7]ラゴス植民地からの儀式に用いる剣[8]海峡植民地からのバッタ叩き[9]などがあったが、西インド・ギャラリーに展示されたバハマ諸島の風景を描いたアルバート・ビアスタットの油彩『After A Norther』は、エドワード皇太子に絶賛された[10]

インドの美術品は、藩王国ごとに、別々の場所に配置されていた。ラージプーターナーの入口は、当時のジャイプル藩王国マハーラージャが造らせた大きなジャイプルの門となっていた[5][11][12]グワーリヤル藩王国の門は、1883年カルカッタ国際博覧会に展示されたものをヴィクトリア&アルバート博物館が借り受けて設置されていた[13]

アーグラの監獄から連れてこられたという数十人のインド人たちが[14]生きた展示物となり、イギリス帝国が長期的に取り組む「犯罪カーストの更生」の一部として職業訓練を与えられた職人として紹介された。

自治領カナダは、農産物や工業製品を多数出展し、果物などの農産物のほか、農機具や楽器が注目され、以降のイギリスにおける市場拡大につながった[15]

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その後

多数の入場者を集めたこの博覧会は、終了までに3万5千ポンドほどの収益を上げ、これを基にインペリアル・インスティテュート(Inperial Institute、後のコモンウェルス・インスティテュート英語版)が設立されることとなり、博覧会への出品の一部を常設展示する形で1893年5月に開館した[3]

この博覧会のために建設されたジャイプル門は、1926年ホヴ博物館英語版に寄贈され、その庭園に移設された後、2004年に解体修復の上で再建され[11]2006年に再公開された[12]

脚注

参考文献

外部リンク

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