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横溝武夫

日本の雑誌編集者 ウィキペディアから

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横溝 武夫(よこみぞ たけお、1909年 - 1966年3月25日)は、日本雑誌編集者。探偵作家横溝正史の異母弟。『新青年』第7代編集長(在任1946年10月 - 1948年3月)。

経歴

1909年(明治42年)、父・横溝宜一郎と母・浅恵との最初の子として、神戸で生まれる[1]。浅恵は宜一郎の後妻で、先妻・波摩との子である正史にとっては継母にあたる。

神戸市立第一神港商業学校を卒業後、1929年昭和4年)、異母兄の横溝正史を頼って上京し、1931年(昭和6年)に博文館に入社。のち、水谷準編集長のもとで『新青年』の編集に従事する[2][3]。時期は不明だが『講談雑誌』の編集部にいたこともある[2]

博文館在職中の1933年(昭和8年)、戸田謙介・本位田準一・野村和三郎ら他の雑誌編集者とともに「六人社」を発足させる。メンバー中では最年少だった[4][3]

水谷準の後を引き継ぎ、1946年(昭和21年)10月号より『新青年』第7代編集長となる[5][注釈 1]。なお、実際には戦後の復刊号(1945年10月号)から編集実務を担当していたという[6]。博文館の同僚であった高森栄次[注釈 2]によれば、水谷が新しく創刊された『ストーリー』誌に回された上、公職追放になって会社を退いたため、編集員が高森と関三穂、風間真一[注釈 3]、横溝武夫の4人しかいなくなり、高森が横溝に『新青年』の編集長になるよう依頼したものという[7]。編集方針を、戦時中の科学小説・ユーモア小説・冒険小説スパイ小説を中心とする構成から、現代ものとユーモアものを中心とする構成へ切り替える[8]

横溝正史の実弟でありながら探偵小説嫌いで[9][10]、横溝武夫編集長時代の『新青年』は探偵小説色は希薄であり[11]大林清などの現代風俗小説がもっぱら掲載された[12]。兄の正史も、この時期の『新青年』について「担当者が探偵小説心のあまりない人だから」「武夫はぜんぜんだめなの」と証言している[13]。それでも1946年10月号では「探偵小説特大号」を企画し、正史の『探偵小説』[注釈 4]久生十蘭の『ハムレット』などを掲載している[6]。また、山本周五郎と親しく[14][13]、その山本に、「覆面作家」名義で現代ものの探偵小説『寝ぼけ署長』(1946年12月号 - 1948年1月号)を連載させた[6]。このほか、1946年12月号で芝山倉平(関四郎)の短編『電気機関車殺人事件』を掲載したり[6]、1947年12月号で水谷準の短編『カナカナ姫』を掲載する[15]などしている。

1948年(昭和23年)3月号で編集長を退任[5]。この間、博文館の解体にともない、『新青年』は1947年10月号から江古田書房の発行となっている。

博文館解体後は、事実上の後継企業である博友社を経て、1960年(昭和35年)に退社。1962年(昭和37年)よりゴルフ雑誌『ゴルフドム』の編集に従事する。1966年(昭和41年)3月25日、現職のまま死去[2]

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脚注

参考文献

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