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橋口収

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橋口 收(はしぐち おさむ、1921年大正10年)9月8日[1] - 2005年平成17年)7月13日)は、日本大蔵官僚。初代国土事務次官公正取引委員会委員長広島銀行頭取・会長、広島商工会議所会頭を歴任した[2]

概要 生年月日, 出生地 ...
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来歴

学習院初等科中等科(旧制)を経て、高等科(旧制)を卒業。中等科3年次から高等科卒業までは首席で通していた。模擬試験も上位に進出し、第一高等学校(旧制)在学生にも「学習院のすごい奴」として知られていた[3]1943年(昭和18年)に東京帝国大学法学部を卒業[2]。当時助教授だった川島武宜ゼミでも抜きん出た存在であり、川島からは大学に残るように勧められていた。しかし、橋口は「象牙の塔にこもるのは性に合わない」と振りきった[4]。東京帝大法学部卒業後、大蔵省に入省する。理財局に配属[5]。同年9月、大蔵省を一旦辞し、短期現役制度(二年現役主計科士官)に志願した。海軍主計見習尉官に任じられ、海軍経理学校にて初任教育を受ける。1944年(昭和19年)3月、海軍主計中尉に任官[1]。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に進み、終戦後の同年9月、予備役となり[1]、大蔵省に復職。

1957年(昭和32年)8月 大蔵大臣秘書官(事務担当)。1958年(昭和33年)6月から1964年(昭和39年)7月までの6年間は銀行局課長として過ごす[6]。筆頭課である総務課長こそ経験していないものの、特別金融課長(特金課長)中小金融課長銀行課長をそれぞれ務めた。「都銀地銀信託銀行など、各金融機関との調整は良い経験になった」と橋口は述べている[6]。1964年7月、大臣官房文書課長1966年8月 東京税関長1967年(昭和42年)8月 東京税関長から銀行局担当の大臣官房審議官に内定していたが、木村俊夫官房長官が橋口を内閣に引っ張り、橋口は内閣官房内閣審議室長となった[7]

大蔵官僚でのキャリアは銀行局が中心であるが、フランチャイズ制打破の人事の一環として、1969年(昭和44年)8月15日 主計局次長(次席)として送り込まれる[8]1971年(昭和46年)6月11日 理財局長1973年(昭和48年)6月26日 主計局長兼会計事務職員研修所長に就任、事務次官に昇格するものと思われたが、田中角栄内閣下で編成した1974年度予算が首相の指示で放漫財政になったためこれに反対、角福戦争に半ば巻き込まれる形で事務次官に就任できず、新設の国土事務次官に押し込まれた(事務次官に就任したのは、田中角栄が推した大蔵省同期の高木文雄主税局長)。主計局長になりながら事務次官の座を逃したのは、福田赳夫以来のことであった[9]

退官後は、公正取引委員会委員長広島銀行頭取、同会長を歴任した。広島銀行会長在任中に、広島に本社のあるマツダフォードとの提携事業をまとめた。

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略歴

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人物

著作

  • 『饒舌と寡黙 愚痴の随想』サイマル出版会、1976年、新版1995年
  • 『新財政事情 大蔵官僚がみた国家財政の実像』サイマル出版会、1977年
  • 『美のフィールドワーク』創世記、1980年
  • 『若き官僚たちへの手紙』日本工業新聞社〈大手町ブックス〉、1983年
  • 『二十一世紀へのメッセージ 若きビジネスリーダーへ』金融財政事情研究会、1991年
  • 『「近代」の座標軸を求めて 文明・文化そぞろある記』金融財政事情研究会、1997年
  • 『[小説]銀行頭取』 経済界、2005年 没後に刊行

脚注

参考文献

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